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「8月15日」は終戦の日なのか

坂東太郎十文字学園女子大学非常勤講師
こんなイメージなのだけど(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

 8月15日が日本で「終戦の日」とされる最大の理由はいわゆる玉音(=昭和天皇の肉声)放送がラジオで全土に伝えられたからです。内容はポツダム宣言の受諾でした。

ポツダム宣言受諾は8月10日

 ポツダム宣言は日本と戦っていた連合国のうち米英中3国の共同宣言として1945年7月26日に出された「戦争終結の機会を日本に与える」文書です。3国はすでに日本に最後の一撃を加える態勢が整っていて、このままでは日本軍および国土に決定的な荒廃を招くと警告し滅亡か「理性の道」かを決めよと迫ります。

 降伏する条件として日本の「無責任なる軍国主義」を駆逐するため連合国軍が日本を占領する、朝鮮半島や中国東北部などの植民地や占領地を剥奪すると定めたカイロ宣言(43年11月)を履行する、戦争犯罪人には厳重な処罰を加えるといった内容でした。宣言を出すための会談中、秘密裏に決められていた原爆投下は8月6日に広島、9日に長崎でそれぞれ実行されたのです。

 宣言が出された時点で既に沖縄は陥落し、本土の至るところが空襲にさらされていました。陸軍は本土決戦に最後の望みをかける姿勢を崩さず宣言を黙殺。原爆もさることながら中立条約を結んでいたソ連が破棄して9日未明に対日参戦したのが決定打となり、8月9日深夜から10日未明(2時20分)にかけて開かれた天皇臨席の御前会議で皇室と天皇統治大権の確認のみを条件とする東郷茂徳外務大臣案を昭和天皇が採用すると決め(聖断)宣言受諾が決まりました。なおこの時点で参戦したソ連も宣言に加わっています。

14日に「第二の聖断」

 ただ連合国の回答が日本の出した条件に対して「日本国民の自由意思で決める」とあいまいで平沼騏一郎枢密院議長や阿南惟幾陸軍大臣などが難色を示しました。

 14日の御前会議で天皇は宣言受諾の意思を再び明らかにして(第二の聖断)終戦が決まったのです。同日夜、終戦の詔書が発布され深夜、宮内省内で天皇自らが朗読、録音盤に収めれました。勅語をラジオ放送する案は11日には浮上しています。

 終戦つまり戦争の終結をいつとするかはさまざまに論じられています。ポツダム宣言を受諾し連合国へ通告した日とすれば10日ないしは14日がそれにあたるでしょう。

「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と閣議決定

 15日正午、録音盤がラジオ放送されました。前日(14日)と当日朝に「重大放送がある」「玉音である」「必ず聞くように」と新聞やラジオで予告された上のことです。全文は国立国会図書館のWEBサイドで閲覧できます。約4分。

 決定的な個所は「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」(ポツダム宣言受諾を連合国に通告した)ですが、漢文調の難しい表現であったのに加えて、天皇の祝詞を想起させるような独特のイントネーション、場所によっては悪かった受信状況などもあいまって玉音放送自体で「戦争はただいま日本の負けで終わった」と認識できた人がどれだけいたか甚だ疑問。それでも内容の解釈はただちにさまざまな方法で広まりました。

 国民の多くはがく然としたようです。何しろ天皇のそばで相談役を務め、成り行きをすべて承知し、同日午前も天皇に拝謁していた木戸幸一内大臣さえ日記に「正午」「感慨無量、只涙あるのみ」と記しているくらいですから先ほどまで一億玉砕、特攻での大戦果、神州不滅の思想を叩き込まれていた庶民はにわかに信じられなかったのでしょう。

 あれだけの空襲を受けていたのにと戦後生まれには不可解な心象ですけど目を背けるほど悲惨な焼け跡に生き残った者は一層敵がい心を燃やしていたようです。同じような感想を降伏直後のドイツ人も多くもらしています。

 8月15日を「終戦の日」と呼ぶのは52年に第1回が開催された全国戦没者追悼式と深い関わりがあります。1963年から同日に営まれるようになり、82年の閣議決定で「戦没者を追悼し平和を祈念する日」であると定められ、この日に追悼式を行うとしたのです。ゆえに「終戦の日」も「終戦記念日」も俗称。式典では玉音放送が流された正午に黙祷します。今年は新天皇即位初の「おことば」に注目が集まりそうです。

天気は「快晴」でなく「晴れ」

 宮城(皇居)がある東京の天気は「晴れ」。雲量は全国平均4.3で気象庁が定める「快晴」(雲量0から1)よりは曇っていて「くもり」(同9から10)よりずっと明るかったようです。全国的にもおおむね晴れでしたが一部「くもり」も。東京の気温は30度を超えていました。

 ところが当時を知る高齢者に聞くとたいてい「暑かった」(正しい)の次に「雲一つない青空だった」に近い記憶を物語ります。この件は作家の井上ひさしの作品にも触れられています。

 どうして悲嘆に暮れた日の記憶が「快晴」なのでしょうか。銃後は絶え間ない空襲を受けていたので8月15日を境に「空が怖くなくなった」からかもしれません。

 あるいは別の心情に発するか。「雲一つない」との記憶は終戦からしばらく経って史料や口述に多くみられます。15日当日は「勝利」以外は「死」しかないと教え込まれ、信じ込んだ日本人に「敗北による生存」という思いもよらぬ選択肢が突如示され、ぼう然とした国民も一変して必死に生きていくうちに復興・成長へと進み手応えをつかみ出します。少しばかり一息ついた時点でターニングポイントたる8月15日はどうであったかと思い出した時「何もかも変わった」という感懐が生んだ天気なのかもしれません。

 「堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ」のフレーズに涙した国民の耳に「古い上衣よさようなら」と軽やかに歌われた西條八十作詞の『青い山脈』が届き大ヒットしたのも敗戦の傷まだ癒えぬ49年の出来事でした。

休戦協定は9月2日

 というわけで8月15日は「ポツダム宣言受諾と通告をしたのを天皇がラジオで国民に知らせた日」ないしは「閣議決定で『戦没者を追悼し平和を祈念する日』と定められた日」で国際法上の戦争終了日とはいえません。もっとも「戦争が終わった日は○○とする」という決まりもないので間違っているわけでもないのです。

 主要連合国の多くは日本と連合国の代表が休戦協定(=降伏文書)にサインした9月2日を「対日戦勝記念日」「大戦終結記念日」としています。対独戦争終結も文書署名日の5月8日。第一次世界大戦も朝鮮戦争も休戦協定署名をもって休戦とされており「8月15日」をもってお仕舞いとするのは珍しいといえましょう。

15日以後の戦いと「承詔必謹」

 もっとも継戦中または襲撃された場合の外地部隊の位置づけは微妙でした。特にソ連は千島列島や樺太、満州(中国東北部)での攻勢を止めず、現地軍は自衛のための戦闘(宣言受諾は「むざむざと殺されろ」とまで命じていない)か、停戦の合意はあるのか、だとしても武装解除して降伏するのかという判断に悩まされたのです。

 目立った攻撃にさらされなかった部隊も身の振り方に迷いました。何しろ前日まで徹底抗戦、持久戦を完遂せよと命じられていたのがいきなり終戦=敗戦といわれれば混乱して当たり前です。とりわけ職業軍人である士官にとって「勝利か死か」だけが課せられた戦を収める仕方を知りません。

 突然の方向転換に納得できず徹底抗戦継続というのが心理的に最も受け入れやすかったのですが問題は終戦が天皇の意思であるという点でした。

 当時の各部隊で上官がしきりに説いた言葉が「承詔必謹」。「詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹め」の意で終戦の詔だと主に「若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム」という部分です。抗戦は明らかに天皇の意思に背くので降伏するしかないと。悔し涙にくれながら皇軍はこの「承詔必謹」で無理やり折り合いをつけて新たに示された「生きる」を選択していかざるを得ませんでした。

 抗戦と降伏のはざまで自決に踏み切った軍人も少なからずいたようです。また少数とはいえジャングルなどに逃げ込み密かに再興を待った者も。戦地外にあった移民のコミュニティーには敗戦そのものを認めない「勝ち組」が誕生しています。

 「承詔必謹」にしたがって武装解除した元軍人は今でも当時自決した戦友に申し訳なさに似た気持ちを抱いていて8月15日にとりわけ故人の面影を思い出すと吐露して下さった方も多くいらっしゃいます。

十文字学園女子大学非常勤講師

十文字学園女子大学非常勤講師。毎日新聞記者などを経て現在、日本ニュース時事能力検定協会監事などを務める。近著に『政治のしくみがイチからわかる本』『国際関係の基本がイチから分かる本』(いずれも日本実業出版社刊)など。

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