石破茂候補が安倍首相に総裁選で勝てるとしたら………

「絶対王者」とイザ勝負(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

 26日、安倍晋三首相が自民党総裁選挙に立候補すると正式に表明しました。すでに石破茂元党幹事長が出馬を明言しており、どうやら選挙は、この2氏による一騎打ちとなりそうです。

 現職の強みに加え、すでに党内の7派閥のうち5派閥が支持、竹下亘派も衆議院議員は安倍3選賛成に傾いているとされ、石破氏は20人しかいない自派と参院竹下派ぐらいしか固めておらずマスコミの観測も総じて「安倍圧勝」です。

 まあ、ふつうに考えれば安倍総裁の勝利は揺るがないでしょう。こうなると石破氏のジャイアントキリングはないのかと探ってみるのも一興かと思い、過去の総裁選のケースから可能性を見出してみようと思い立ちました。

一騎打ちに敗れた候補のその後は明るい

 55年に結党し、翌年に1度目の総裁選が実施されて以来、おおよその構図は以下の通りです。なお72年までは立候補制でなく、自分で自分の名前を書いて1票などというケースもあったので、少なくとも二ケタ得票を得た者に限定します。

・1強または候補者1人で無投票当選………9回

・一騎打ち………5回

・3候補………11回

・4候補………5回

・5候補………2回

 他に総裁または副総裁による裁定での決着が5回、話し合いによる一本化が2回、任期延長が1回(中曽根康弘氏のみ)となっているのです。

 まず文字通りの一騎打ち。1959年は岸信介(岸派)総裁の任期満了にともない実施されました。松村謙三(三木・松村派)が挑むも完敗。ただし得票は岸320票に対し松村166票と意外に多かったのです。

 70年10月は現職の佐藤栄作総裁4選。2位の三木武夫氏を引き離しました。

 93年7月の総裁選は自民党が総選挙で大敗して下野(野党へ下る)した後です。河野洋平(宮澤派)と渡辺美智雄の2氏が立候補しました。当時キングメーカーだった竹下登派が大分裂してパワーを失うなか渡辺候補の体調不良も響いて河野総裁誕生。しかし野党なので「総理・総裁」にはなれませんでした。

 その河野総裁の任期満了で戦われた95年は自民党が宿敵日本社会党の村山富市委員長を首相とする奇策で与党へ返り咲いた直後でした。橋本龍太郎(小渕派)は宮澤派の跡目を河野氏と競っていた加藤紘一氏の支持を取り付けた一方で、孤立した河野氏は推薦人30人すら集められず出馬を断念します。三塚派の小泉純一郎候補は自派の応援さえ十分得られないまま無投票を嫌って選挙へ持ち込むも敗れて橋本総裁誕生。

 07年9月の選挙は福田康夫(町村派)と麻生太郎(麻生派)両氏の一騎打ち。麻生派は河野グループを継承。町村派は森派を継承。麻生氏は自派のみしか支持がなく他派閥が福田支持。かえってこの構図が01年の小泉旋風(後述)を彷彿とさせ派閥領袖(親分)のグリップが効かず福田候補は勝ったものの辛勝でした。

 この5例から野党のトップを決める93年選挙を除くと現職に挑んだ三木派、孤立無援を恐れず立った小泉純一郎および麻生太郎候補が敗者です。三木氏は結党以来、大人数の佐藤派(後に田中派→竹下登派。現在の竹下亘派など)、池田派(後に大平派。現在の岸田文雄派など)、岸派(後に福田赳夫派。現在の細田博之派など)へ時に抗する独自路線を歩んでいました。純一郎氏は説明不要の「変人」。麻生氏は醸し出す雰囲気と異なって意外と(?)義理堅く小さな河野グループに属していました。この点で石破氏と通底するところがあります。

 もちろん総裁選では皆負けてしまいました。ただ注目すべきは三木、小泉、麻生の3氏は後に皆「総理・総裁」の座を射止めているという点です。

読み切れない地方票

 次に3候補で争ったケースながら2位がトップをある程度脅かした選挙を観察します。

 1998年7月。橋本龍太郎総裁が参院選敗北の責任をとって辞任した跡目を決めました。小渕派(田中派の流れ)は領袖の小渕恵三氏を擁立。梶山静六氏(小渕派)が派を割って無派閥で立候補しました。結果は小渕225票、梶山102票。梶山氏の善戦が際立ったのです。

 そして2001年の「小泉旋風」。橋本龍太郎元首相(小渕派より橋本派継承)の再登板が有力視されるなか、国会議員票で劣勢の小泉氏は地方票(自民党員・党友ら)による予備選へ着目し、国政選挙と見まごうばかりの街頭演説を展開しました。「投票するのは自民党員・党友だから街頭演説など効果なし」と冷ややかにみられていたのが熱弁ぶりが評判となり41都道府県でトップとなったのです。橋本15票、亀井3票、麻生0票。余勢を駆って議員票でも橋本氏に競り勝ちました。

 この地方票の怖さは12年9月の総裁選でも遺憾なく発揮されます。第1回投票で石破茂候補が地方票で圧倒して第1位、2位が安倍晋三氏でした。国会議員のみの決選投票で安倍氏が勝って総裁に収まるも、1回目の投票で2位の候補が決選投票で逆転したのは1956年12月の総裁選挙(石橋湛山が岸信介を逆転)以来でした。

 つまり安倍氏は自らを首相時代に引き上げてくれた小泉氏や、12年の再登板で冷や汗をかいた石破氏の戦い方から地方票の怖さを身に染みて感じているはずです。しかも過去に逆転された岸信介氏が安倍首相の祖父という因縁も当然ご存じでしょう。今回もちまたの「圧勝」予測に浮かれず地方票獲得のため締め付けているようにすら感じる安倍陣営の動きは相応の理由があるわけです。

 石破氏は民主党に完敗して下野した後、党政調会長に就任。退任後の11年9月から全国約100カ所を行脚して地方に力を注ぎました。当時の地方側による石破支持の理由は親近感や安全保障などの政策通、ぶれない姿勢、理路整然としながらもわかりやすい口調などが挙げられています。政権復帰後は地方創生担当大臣として地歩を固めてきました。

まだ生きている「角福戦争」の怨念

 「角福戦争」とは1970年代から80年代半ばまで続いた田中角栄氏と福田赳夫氏の党内バトル。72年の総裁選で角栄氏が勝ってから82年の中曽根康弘総裁誕生ぐらいまで続きます。中曽根氏が主導権を握った期間を挟んで、田中派を割って出た竹下登氏が総裁に就いた87年からは竹下派支配と姿を変えて継続。「角福戦争」時は大平正芳派を田中派が担ぐ形がメーンでした。竹下派支配は派閥領袖ではない宇野宗佑、海部俊樹両氏をコントロールした後に大平後継の宮澤喜一氏を担ぎ、野党転落の憂き目をみます。

 与党復帰後も橋本龍太郎、小渕恵三と竹下派から総裁を出し、2000年4月には小渕急死を受けて福田派を継承する森喜朗(森派)氏を総裁に選出するも、背後に小渕派の青木幹雄内閣官房長官や野中広務幹事長代理がいました。

 ところが次の総裁、小泉純一郎氏(森派)はもともと竹下派支配を排する「YKK」の一員で、以後、安倍晋三、福田康夫両氏ら旧福田派から総裁が誕生しています。

 こうした図式は今も残っているようです。「角福戦争」のうち「角」の直系は竹下亘派で石破氏はかつてこの系統に属していました。父は田中派です。「角」と同盟関係にあった大平派の流れが岸田派で、当初同派内から領袖の文雄氏に「総裁選立つべし」との主戦論が上がったのも「福」側の安倍氏にいつまでも譲っていていいのかという思いがあったからでしょう。

 竹下亘派は派を継承後、自身を含め自前の総裁候補を育てられなかった額賀福志郎派会長を参議院勢力が中心になって辞めさせた「クーデター」の結果生まれています。田中派以来この派閥は業界団体の長などを擁立する参議院の勢力が強く、沈滞したままでは収まらなかったのです。そして石破支持を表明しました。

 一見孤立無援の石破氏もかつての最強派閥で関係も近い竹下亘派から部分的とはいえ支持され、岸田派も安倍支持で収まったようで内々では憤懣やるかたない主戦派議員を抱えています。かつて圧倒した「福」の流れに長らく支配されているのが面白いはずがないのです。

一物ありそうな無派閥の面々

 派閥はかつて人材育成からカネの準備、選挙での公認獲得から当選後の人事まで幅広い権限を持つ「党内党」でした。したがって総裁選の際の数合わせも比較的意味を持っていたのですが今や人事に多少かかわる程度。小泉政権以来、過去のように派閥の推薦者を順送りで大臣にする慣例も形骸化しています。単なる足し算で総裁選の有利不利をはかれない時代となってきました。

 加えて74人を数える国会議員「無派閥」の存在です。小泉政権下から急に増えてきました。先述のような派閥機能の低下に比例しています。内情は複雑で大平派の流れをくむ谷垣禎一グループ、首相を支える菅義偉内閣官房長官の影響下、前回の総裁選で安倍対抗として立候補しようとして果たせなかった野田聖子総務大臣に近い議員、12年総裁選で石破氏を支持した、1人で局面をガラッと変える破壊力を持つ小泉進次郎衆議院議員など、菅系を除くと安倍氏に一物ありそうな面々が集っています。

唯一現職が敗北したケースとは

 現職の「総理総裁」が出馬した総裁選で敗北したケースは1例しかありません。「角福戦争」のさなか1978年の総裁選です。現職の福田総裁に田中派が推す大平正芳氏らが挑みました。この時初めて、国会議員だけの選挙の前に党員・党友による予備選が行われます。福田総裁は予備選優位を確信していて「100点差がついたら、2位の候補は本選を辞退せよ」とまで公言しました。マスコミも福田氏の発想と大して変わらず本選でどの派閥がいかに動くかばかり注目していたのです。

 ところが大平氏の地方巡りに加えて田中派が持ち前の徹底したローラー作戦による票の掘り起こしを水面下で展開したために結果は大平氏が福田氏に110点差をつけて1位通過。自らの発言に縛られて福田は本選を降りざるを得なくなりました。「天の声もたまには変な声がある」という敗戦の弁はあまりに有名。ここでもやはり地方票は読みにくいというのがわかります。