「パパ、神経衰弱しよう」~連れ去られた親の「抜け殻」感

■自殺の事実が、日本の単独親権の闇を示す

僕はふだんは不登校やひきこもり、発達障害の子をもつ親の面談支援を行なっている。すべて大阪市や大阪府の委託事業内で行ない、それは市民からみると通常の行政サービスに含まれる。そのため料金もすべて無料だ。

そのような看板(不登校相談等)で無料面談支援を行なっていると、時々「妻か夫に子どもを『連れ去られた』別居親」と出会うことがある。当欄でも度々指摘してきた、子どものabduction/連れ去り・拉致の被害者だ。

それらの親御さんは最初はためらってabductionの事実を伏せている。けれども話し込んでいくと、問題の本質は、離婚や別居時に起こったabduction/連れ去り・拉致であり、そのことに関して目の前のその親御さんが深く傷ついていることがわかってくる。

Twitterなどでは、連れ去ったほうの同居親(母親が多数)や弁護士に対する怒りの言葉が並ぶが、実際に面談支援の場に現れる別居親たちは怒りとは反対の悲しみに覆われている。

それは支援という角度で切り取ると、PTSDであり鬱状態なのだろう。実際、最近話題のこの記事(日本人の親による「子供連れ去り」にEU激怒──厳しい対日決議はなぜ起きたか)でも、連れ去られた親の自殺の問題に触れている。

数年前には、子供に会えない悩みでフランス人男性2人が自殺した。「僕も自殺を考えたがやめた。息子に頑張っているパパの姿を見せたほうが意味がある。いつか息子が気付いてくれると期待している」と、別のフランス人男性は強調する。

出典:日本人の親による「子供連れ去り」にEU激怒──厳しい対日決議はなぜ起きたか

この記事でだけではなく、時に「虚偽DV」という悪質な手法のもと子どもを連れ去られ残された親が自殺に追い込まれることは、Twitterや個人ブログに溢れている(たとえばこれ。リンクされた記事群は資料的にも価値がある→人権弾圧により奪われ続ける報われない命)。

むしろ、DV対策の名のもとに隠蔽されていくこうした自殺の事実が、日本の単独親権の闇を示している。

■「パパ、神経衰弱をしよう」

精神医学的にはこうした自殺の背景を、PTSDや鬱状態で説明できるのだろうが、僕が実際に親御さんたちと話していて感じるのは、独特の

「抜け殻感」

だ。別居親の方々は毎日仕事もし、がんばって生きている。けれども、面談に訪れた彼ら彼女らの話しぶりや仕草からは、独特の諦めを僕は感じてしまう。

それは、「空気=同調圧力」社会ニホンで子どもを連れ去られ、それに加えて、虚偽DVや人間性の問題まで問われてしまった人の疲れだ。生きがいや希望だった子どもを連れ去られ、完全に孤独になってしまった現状を言語化することがつらすぎる人の諦めだ。

そうした、疲れや諦めが数年単位で積み重ねっていくことで、「抜け殻」のような雰囲気が現れてくる。

決して声も荒らげないし滅多なことで感情を噴出することもない。事実を淡々としゃべる。

子どもと過ごした時間、保育園や幼稚園に迎えに行ったこと、日曜日にいっしょに遊んだこと、誕生日プレゼントにぬいぐるみを買ってあげたこと。

楽しそうに親御さんたちは語るものの、その語りには細かい部分が欠落している。細かなディテールが少ないエピソード群は、それらの過去の思い出を半透明なものにしている。

僕は、そうしたディテールの欠落をクライエントのみなさんが苦しくない範囲で聞くことも「支援」だと思っている。生活の中での細かい情景を語ることで、問題の本質が見えてくることが多く、それは100年前のフロイトの著作群などにも感じることのできる、支援の極意だと解釈している。

連れ去られたことから生じるPTSDをお持ちのため、しつこくは当然聞かないけれども、たとえば子どもと室内で遊んでいた時「どんな遊びをしました?」などと聞く。

記憶にディテールを欠いているため即答はできないが、あるタイミングでたとえば、「トランプをよくしました」等の返答がある。

どんなトランプをしましたか? と僕は続けて聞く。すると、その別居親(父の場合もあれば母の場合もある)はこんなふうに答える。

「ああ、そういえば、子どもから『パパ、神経衰弱をしよう』」とよく誘われたなあ」

■耐え続けている

そのあと、目の前の父親の目に涙が浮かび始め、神経衰弱の有様を嗚咽をこらえつつ語ってくれたりする。

「僕が誤ってジョーカーを1枚だけ入れていたら、『パパ、ジョーカーは2枚入れなくっちゃ』とよく怒られました」

目の前に座る別居親である父親は、号泣する場合もある。

それだけ、別居親たちはふだん自分の置かれた理不尽さに耐え続けている。虚偽DVや親失格等の理不尽な言葉に耐え、ひとり取り残された自宅での膨大な時間に耐え、月1回2時間しかない「面会」時間さえ延期させられてしまう事実に耐えている。

そうした忍耐を続けていくために、自分の愛する子どもたちと過ごした時間の細かいディテールをあえて消去しているように僕には思える。

辛い境遇が延々と続いていく時、その辛さの源泉にたとえば幸福な過去の子どもの映像があったとすると、その幸福さと人は向き合えないのではないかと僕は推測している。

現在の大きな停滞感を凌ぐためには、そうした過去の幸福が邪魔になってくる。何月何日にこれをした的スケジュールの記憶は残っているが、そのスケジュールの中で起こった細かい事実を思い出すことがつらい。

たとえば、神経衰弱でジョーカーが1枚なことにに文句を言うかわいい子どもの表情を思い出すことができない。思い出してしまうと、今の自分を維持することが難しいからだ。

そうした理不尽さと忍耐と悲しみに毎日「連れ去られた親たち」は耐えている。記憶を少し薄くさせて、本当はずっと覚えておきたいその子どもの笑顔がその時なぜ現れたのか、そうした細かい場面をあえて封印している。

子どもの連れ去りとは、そうした別居親たちの悲しみと涙を潜在化させているというだけで犯罪的だ。

そして同時に、子どもも傷つき、それが潜在化していることも忘れてはいけない(「親が死ぬこと」を子は想像できない)。