■その具体的行動が「マスク」

僕は長らくひきこもり支援をしてきたが、そんな彼(ら)が言うには、「マスク社会が怖い」のだそうだ。

それはひきこもりとはあまり関係ないのかもしれない。が、社会が自分をどう見るかという視点では、まさに元ひきこもり当事者にしか言えない言葉だ。

彼が言うには、いま、「外」でマスクを少しでもしていなかったら思いっきり「怒られそうな気がする」のだそうだ。

「相手が中高年のオッサンだと、本当に殴られるかもしれない。オレはそれがものすごく怖い」

この感じは僕はよくわかる。

実態としては、新型コロナ騒動は収束期に突入したと僕は考えている。多くの識者が引用するこのデータ(新型コロナウイルス国内感染の状況)を見ても、5月5日から6日連続で新規患者数は減少している。

まあ当欄は、このデータをどう見てどう判断するかを論じる場ではないのだが、俯瞰的には第一次ピークは去ったということは言えると思う。

それなのに、我々の現実社会では、多くの大人が、というか、ほぼ100%近くの大人が(僕の住む大阪では、たぶん東京や横浜でも)マスクをしている。

これは単に、同調圧力が強く「共同体」を重視する日本社会の伝統が強烈に維持されていることから来る、当然の帰結なのだと思う。そのキーワードは「空気」であり、その具体的行動が「マスク」なのだろう。

テレビが強烈に新型コロナ情報を連日報道し続け国民をある意味「洗脳」した結果なのかもしれないが、それにしても、毎日25度を超えて汗をかきながらもほぼ100%の大人がマスクし続けるこの社会は、新型コロナという中途半端な指定感染症(日本での現実は毎年のインフルエンザのほうが何倍も凶悪)という客観的事実を超えた「空気」が都市を支配している。

いちばん怖いのは新型コロナではなく、そうした共同体と空気と同調圧力の、世界でも奇跡的に新型ウィルスを予防することのできた、平穏な日本社会である、という元ひきこもり青年の怖れは切実である。

■「自由」とトレードオフ

そういえば僕は今日の夕方、大阪市の中心部の某公園を抜けて当法人の事務所に帰ってきたが、16:00頃のその公園は子どもたちや親たちで非常ににぎやかだった。

彼女ら彼らは学校がほぼ休みの日常を紛らわすためか、ブランコに乗ったりキャッチボールをしたりサッカーのドリブルをしたりと各々日々の「自粛生活」を発散していた。

そうした風景を見ていて、僕は気づいたのだった。

それは、マスクをしているのが親たち(大人たち)だけだということを。

小学生から中学生まで、子どもたちは100人くらいいたが、自粛生活が長引いている今日(大阪府では吉村知事の方針により今週末にも自粛方針が変更される見通し大であるものの)、不思議と子どもの誰もマスクをしていなかった。

対照的に、大人たちは全員、お母さんもおじいちゃんも全員、マスクをしていた。

それは、「マスクが当たり前」の社会に住んでいる多くの大人たちにとってみれば当たり前なのかもしれない。

けれども僕は、以上のような「問い」をいつも抱えて生き、考え、街中を歩いている。

そんなおそらく「少数派」の僕からすると、今日の公園の、「子どもはほぼマスクしていない」、「大人は全員マスク」という現象は鮮烈だった。

つまり、日本人に顕著に見られるという、同調圧力と空気と共同体内の承認は、子どもの「自由」には干渉しきれないのだという事実だ。

言い換えると、この国において「大人になる」ということが「日本人になる」ということとイコールであり、そのこと(日本人になる)が子どもの特権である「自由」とトレードオフであるという悲しい事実だ。