虚偽DVは、「昭和フェミニズム」から生まれた

■離婚ストーリーのなかで現れる「離婚弁護士」や虚偽DV

新型コロナ禍により、大阪・天王寺周辺の大型書店もほぼ休業中のため未読なのだが、単独親権をもとにした離婚で生じる「虚偽DV」「子の連れ去り(欧米では誘拐犯罪とみなされる)」が月刊誌で2ヶ月連続で特集されているようだ(月刊Hanada)。

なにもこれはこの月刊誌が初めて取り上げた問題ではなく、各メディアでは6~7年前より定期的に取り上げられる話題だ。それらはこのサイトにまとめられているのでご参照いただきたいが(虚偽DVの実態)、その中のテレビ番組のミニ特集には、虚偽DVとみなされ子をある日突然連れ去られ(拉致)た男性の証言が紹介されている。

また新しいニュースでは、半田市での二審に至るまでの虚偽DV訴訟と、その後の行政との和解報道、そしてそれに伴う新聞社の訂正記事なども記憶に残っている(「DVの加害者と判断された」市に損害賠償求めていた公務員の46歳男性 市が謝罪し和解成立})。

僕の記憶の範囲でもこれだけの事実と報道がある。年間の離婚数は約20万件、そのなかでもこうした問題を帯びるケースは多くて15万件に及ぶとも言われる。連れ去られたり虚偽DVの加害者とされる人々は夫側だけではなく、少数ではあるが妻側も含まれる。

もちろん、実際にDVのあるケースもあるだろう。事実としては、多くの虚偽を含めてたくさんの人々が(特に最大の当事者である子どもも含め)そこに巻き込まれている。

実態としては、20万件の離婚の中身は、虚偽DVを含みながら多様なかたちがある。そこには一言でまとめきれない数々のストーリーがあるはずだ。

けれども、それらのストーリーを「離婚」というかたちで終結させる際、離婚問題をビジネスとして受け持つ「離婚弁護士」の存在があり(ネット検索すると「離婚承ります」的なエグい広告は簡単に発見できる)、その流れのなかで捏造される虚偽DVがあり、行動として「子の連れ去り(拉致)」が多数存在する。

■フツーの、「やさしいお父さんたち」

上に書いたとおりこの被害者には妻側も含まれる。とはいうものの多数は男性(夫側)なのだが、彼ら彼女らの声は沈黙させられている。いわば「離婚問題の中のサバルタン(抑圧され沈黙させられる人々を総称するポストモダン哲学の用語)」なのだが、何が彼ら彼女らの声を抑圧するのだろうか。

現実問題としては、でっちあげDVを簡単に認めてしまう行政や警察権力による抑圧があるとは言える。が、それら目に見える権力を後押しする社会の空気・エートスもあるだろう。そうしたエートスをあまり検証することなく受け入れ、法曹界(裁判所含む)や警察は、離婚弁護士の法的技術に幇助された一方の親(多くは妻側)の訴えを検証することなく受け入れる。

この受け入れに異議を唱えることができる当事者(虚偽DVと連れ去りの被害者)は、メディアや法的措置に訴えるだろう。だが、そうした力のある当事者(いわば代表者)はやはり少数派であり、多くの当事者は悔しさを抱えつつ沈黙する。

話題の「養育費の不払い」が70%以上を占めることなどは、いわばこうした沈黙するサバルタンのささやかな抵抗なのかもしれない。

そうした沈黙する普通の男たちは、裁判所や行政が想像するような「悪い男たち」ではない。

現代日本であればそこら中に存在する、子どもに対して優しい普通の男たちだ。

保育園の送り迎えもするし、掃除・洗濯もするし、料理もする。妻がなにかの用事で出かける休日は、子どもと一緒に遊び、買い物に行き、子どものおもちゃも(買い過ぎになるほど)買ったりする。

子どもが小学校に通い始めると、野球やサッカー、スケートなどにも積極的に付き添い、手伝いをする。

きわめてフツーの、「やさしいお父さんたち(もちろんお母さんもいる)」なのだ。

■「ルサンチマンフェミニズム」に言い換え

こうした、やさしいお父さんがなぜ虚偽DVとでっちあげられ、連れ去り拉致犯罪の被害者になるのだろうか。そうした事象を黙認してなかったことにする、日本社会の雰囲気はどこから形成されたのだろうか。

僕は、少し前に当欄で触れた「少女フェミニズム」がそうした社会的空気の醸成に大きな役割をはたした、と考える(「少女フェミニズム」が単独親権を続ける)。

だが少女フェミニズムという表現は、批評家の大塚英志氏も別の角度から言及するなどして(江藤淳と少女フェミニズム的戦後)、少し焦点がぼやけてしまうようだ。

そのためここでは少し表現を変えて、「ルサンチマンフェミニズム」と言い換えてみたいと思う。

哲学者のニーチェが唱えたルサンチマンは怨恨などとも訳されるが、つまりは「全否定」の技術のことだ。よく例えられるのは、頭上に見えるブドウがほしいキツネはジャンプしてもそのブドウに届かないため、そのブドウのことを「まずい」と思いこむことで、つまりは欲しくて憧れるものを思考のなかで全否定することで、自分を優位なポジションにする。他者への否定思考により、自分を正当化する、この思考活動がルサンチマンと呼ばれる。

そう考えると、上の記事(「少女フェミニズム」が~)で引用した、上野千鶴子氏の東大スピーチなどは、典型的なルサンチマンだ。それは、

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。

ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。

出典:「がんばっても報われない社会が待っている」東大の入学式で語られたこと【全文】

不正入試という言葉があるので曖昧になっているが、ここで言われる「報われない社会」とは、上野氏が長年指弾し続けてきた理不尽なオトコ社会のことだと容易に推察できる。

社会はそもそも理不尽で報われない。それを成り立たせているのは、男性優位という社会の価値だ。これをまずは糾弾し、全否定することからフェミニズムは始まる。

個人的に僕はこうしたルサンチマンフェミニズムは嫌いではない。それは第一に僕が上野流フェミニズムが席巻した80年代に青春を送ったからであり上野ファンだったからというのもあるが、僕自身、日本社会の硬直ぶりに辟易しているからだ。

■昭和フェミニズム

それを上野流ルサンチマンフェミニズムはバシッと突いてくれた。だから、80年代~90年代はそうした思考が地面に染み込むようにして溶け込み、それはエリートが集う行政や法曹界にも染み通ったと僕は思う(そのことを大泉博子氏は「官製フェミニズム」と表現する「男女平等社会」のイノベーション―「男女共同参画」政策の何が問題だったのか―)。

オトコ社会がそもそも悪い。そうした社会の代表的現象であるDVは、最低最悪の現象だ。

そして、その被害者(多くは女性)が勇気を振り絞って名乗り出た時、法システムと警察権力は無条件で守らなければいけない。そして、この名乗りに対して、社会は温かく見守らなければいけない。

こうした、ある種の強力なルサンチマンフェミニズムに基づく規範が、社会の中に網の目のように醸成され、錦の御旗となったその規範により、虚偽DVという鬼っ子を産み出したと僕は解釈している。

その結果として、離婚により苦しみ沈黙する男たち(女たち)を潜在化させている。それら沈黙するサバルタンは、裁判所と行政と警察の無視に傷つくことに加え、社会からの「DV加害者かもしれない」という目に見えないラベリングにも苦しんでいる。

そうした権力による無視と、社会の一方的ラベリングを支えるのが、ルサンチマンフェミニズムという規範だと僕は思う。

それにしても「ルサンチマンフェミニズム」では長過ぎるか。

そんなことを友人相手にSNSしていると、上野氏は80年代に台頭した方だし、80年代は昭和最後の黄金時代だったということで、いっそのこと、

「昭和フェミニズム」

でいいんじゃないか、という意見をいただいた。なるほど、弁証法的なその対立姿勢といい、昭和最後の黄金期である80年代に台頭した思想といいい、「昭和」がふさわしいかもしれない。

というわけで、以降は、

「昭和フェミニズム」

を使いたいと思います。早く昭和フェミニズムを過去のものとし、それをアップデートさせ、虚偽DVと引き離してあげたい。

※本稿は4/25に初稿、4/26に再後半部分(昭和フェミニズム部分)を校正して付け足しました。この「昭和フェミニズム」のアイデアは、「ユニークフェイス研究所」代表・石井政之さんです。