■不安定な一部の10代と、「マスク」との親和性

新型コロナウィルスの影響で、「布マスク皆配送」が論争となり、東京を中心とした首都圏や僕が活動する大阪をはじめとして、マスク不足が全国で続く。

仕事で外出し、横断歩道で信号待ちしている時、信号が変わって一斉に向こう側の人々がこちらに歩いてくる時、それらのほぼ全員がマスクをしていることにもこの頃は慣れてきた。

そして、それらのマスクをした顔、言い換えると目だけがチラッと見える顔には本当に匿名性があることが実感できる。報道写真などでは目を黒く塗ることで匿名性を演出するが、マスクで顔の半分~2/3隠すことも十分匿名効果があることがわかった。

子ども若者支援をもう25年も行なう僕にとって、マスクは一部の傷ついた若者たちに重宝されるアイテムだということを知っている。

不登校やひきこもりなどで家で過ごす子ども若者たちは、いざ外出する時、マスクをする人が一定割合でいる。

ジェンダー別で言うと女性に多いが、ジェンダーが流動的な10代は紋切り的なジェンダー判定は難しく、性が未確定な人々も、僕の経験ではマスク率が高いように思える。

「自分とは何か」と問い、自分の根本的あり方に不安定な一部の10代と、「マスク」は親和性があるようだ。

■日本の10代はマスクをする

その、「自分」と「顔」は同義なのかもしれない。あるいは、「口」でもいい。あるいは、「笑顔」や「表情」でもいい。表情をかたちづくる最大の箇所は、顔の中では「口」なのかもしれない。

また、「自分」は「肌」、なのかもしれない。肌の色ももちろんアイデンティティと結びつく重要な要素なのだろうが、それよりもう少し「手前」のレベルで、「外部」と自分という「内」の境界が肌であるという意味で、外部に直接接する素肌こそが「自分の最後の牙城」とも言えるのかもしれない。

『ライ麦畑でつかまえて』で知られるJ.D.サリンジャーは、若者の「自意識過剰(自分がどう見られ、見られることによって自分はどう変化するか)」について正面から取り組んだ世界で唯一の作家だと僕は敬愛しているが、そのサリンジャーの傑作短篇集『ナイン・ストーリーズ』の冒頭「バナナフィッシュにうっつけの日」で、主人公のシーモアが自分の素肌の足を「見られた」として、見知らぬ人を攻撃する場面がある。

シーモアの場合は足というよりは「素肌」だったと僕は解釈している。素肌を見られることに、彼は怒りを感じる。

素肌と「自分自身」がそれほど連動しているのだろうか。素肌を見られたと勘違いして怒るほど、シーモアは「自分」を隠したかったのだろうか。

このシーモアのメンタリティと、僕が支援の現場で出会う10代の若者たちはよく似ている。ただ、シーモアが抗議するのに対し、日本の10代はマスクをする。そして、ひきこもる。

■「自分」が軽くなったその時、外の世界は

いま、新型コロナウィルス対策でマスクをする大勢の人々は、自分の顔を隠したいからマスクをしているわけではなく、感染予防のために着用している。ウィルスをもらいたくない、ウィルスを伝播させてはいけないという、すこぶる実践的で実用的な理由でマスク着用はなされている。

「自分を見られたくない」という理由で以前からマスクを愛用する10代の人々からは、周囲も(別理由だが)マスクをし始めたことでさらに没個性が図られている現状には満足だろう。

人々が感染予防からマスクをすることで、マスクをしていること自体もそれほど目立たなくなっている。

マスク着用の匿名性、そして周囲のマスク着用の増加による没個性、このように二重の意味で「自分」が消されている。これは、肥大化する「自分」を持て余す10代にとっては歓迎する事態だろう。

またこれはある意味、無理してひきこもらなくてもすむ、ということなのだが、皮肉にも、やっと気楽に外出できるようになった今なのにショッピングモールや家電量販店が休館するなど、行くところがない。

皮肉にも、「自分」が軽くなったその時、外の世界は「閉じて」いる。それほど自分の「口」や「素肌」に敏感にならなくてもよくなった今なのに、外部が閉まっている。