アタッチメントが「ペアレンティング・タイム」をいざなう~離婚後の「面会交流」ではなく

■24カ国中22カ国が共同親権

法務省は4月10日に、24ヵ国対象に「共同親権」の実態について調査した結果を発表した(「共同親権」導入22カ国 法務省 24カ国調査、日本は「単独」 2020/4/11付日本経済新聞)。

それによると、24カ国中22カ国が共同親権であり、単独親権は日本とインドだけだった。

我が国の、単独親権の背景にある「少女フェミニズム」に支えられた複雑な事情については、前回当欄で言及した(「少女フェミニズム」が単独親権を続ける)。

少女フェミニズムが抱く「オトコ社会」への恨み=ルサンチマンをもう少し相対化しないと、多くの当事者たち(子どもと別居親)の悲劇は続く、とした記事だ。

そうした調査や議論を射程に入れつつ、今回は、「ペアレンティングタイム」という聞き慣れない言葉にも言及したい。

これは文字通り、「親との時間」という意味で、離婚後の親子が出会う機会や時間をいう。

離婚後は共同親権の場合は、たとえば年間100日(主として週末)が父親、それ以外の265日(主として平日)が母親、と子どもたちはそれぞれの親のもとで時間を過ごす。父母は、子どもが移動しやすいようそれほど離れた場所に住まないよう離婚時に誓約するのだそうだ。

が、単独親権の日本の場合、同居する親(母が多いが父が親権を奪う場合もある)がほぼ365日子どもと過ごす。別居親は、平均「月1回2時間」を子どもと過ごすのだそうだ。過ごす、というにはあまりにも短い時間と、あまりに長い間隔だ。

だが、数ヶ月に一度しか会えない別居親もいるし、何年も会えない別居親もいる(たとえば歌手の高橋ジョージ氏THE 虎舞竜 高橋ジョージ)。

■面会交流という言葉をあらため「ペアレンティングタイム」

ほかにも多くの別居親たちが日々泣いている。Twitterにはそうした嘆きが満ち溢れている。

実際、その嘆きが鬱に変化し、自死を選ぶ別居親もいる。また、子どもの「つれさり」にあった別居親たちの嘆きは、訴訟にもなっている(子の連れ去り違憲訴訟)。

その嘆きの代償はいずれ法の共同親権化となって報われると予想されるが、今のところは、「月に2時間」しか我が子とは会えない。

しかも、その会う時間のことを「面会交流」などと称されている。我が子に会うことについて、「面会」といういかにも他人行儀で冷たい表現を我が国の法システムは長年採用している。

こうした現実を受け、参院議員の嘉田由紀子氏は、面会交流という言葉をあらため「ペアレンティングタイム」という言葉を使おうと提唱する。以下は、去年の法務委員会での氏の質問だ。

○嘉田由紀子君 御丁寧な御回答ありがとうございます。

今、面会交流という言葉を使ったんですけど、これ、英語で元々ビジテーション、訪問する、あるいはコンタクト、最近はペアレンティングタイム、つまりペアレントをイングを入れて、親として養育をする時間という形になっておりますので、私自身は、ちょっと今、法的には日本で面会交流という翻訳にされているんですけれども、少し括弧書きでペアレンティングタイム、つまり養育を両方の親がやれる時間というような理解でいけたらと思っております。

出典:20191112法務委員会【完成稿】 令和元年十一月十二日(火曜日)法務委員会

共同親権も見据えたうえでの言葉の言い換え、これはシステム変更時には王道だ。「面会交流」の冷たさを否定し、ペアレンティングタイムと称することで、一方の親に偏りがちな子どもとの時間について、フェアな印象を与える。

■「コミュニケーションが先にある」

法的言い換えとは別の次元で、親子の長年の関係性の中から、「面会」はふさわしくないと僕は思う。乳児期から続くその関係性は、「面会」的な、主体と主体の会話のようなイメージとは程遠い。

それはもっと、身体的な、直感的な、意志以前の、互い(親子)の「自我」以前のレベルで行なわれる交流である。

その交流の源泉は、「アタッチメント」形成期(おおよそ1.5才まで)に遡る。

最近は乳児期より夫婦協同で育児を行なうことが増えている。授乳は母が行なう(母乳で行なえない状況時は父もその都度ミルクを作って授乳するだろう)が、それ以外のオムツ交換・寝かしつけ・日々の話しかけや散歩等は、母と父が協同で行なうことも珍しくない。

そうした場面では、親は子に笑い、手で世話をし、身体全体で抱っこするだろう。抱っこしつつ、「おかあさんといっしょ」の歌をうたい、その親の声が乳児の全身に染み込んでいくだろう。

哲学者のメルロ・ポンティは、『幼児の対人関係』(幼児の対人関係)のなかで、「地」の中から結果としてある意味「浮かび上がってくる」ようなものとして「主体」がある、と説明している。通常言われるような、赤ちゃんや幼児という「主体」がはじめにあってその周辺に他者が配置されるのではなく、他者(親)や乳幼児も建立した「コミュニケーションの場」がはじめにあり、そうしたコミュニケーションの結果として子どもという主体が現れると書く。

こうした「コミュニケーションが先にある」ことは、精神分析医のフロイトや哲学者のドゥルーズも指摘する、それほど珍しくはない説だ。

児童精神科医のボウルビィが提唱した「アタッチメント」(「愛着」は主体性が強調されているので誤訳に近い)も、フロイト以来の議論を受けたものだと思う。

親と子の主体性以前で爻わる場(それは授乳でもいいし絵本読みでもいいし何気ない笑いでもいい)でアタッチメントが形成される。その「他者への信頼」がその後の子にとって必要不可欠な基盤となる。それが児童虐待などで形成されなかった場合、極端に不安定な状態となって生涯を送ることも珍しくない(愛着障害などと呼ばれる)。

■アタッチメント形成に関与した少数の大人との信頼関係は生涯続く

アタッチメント~他者との信頼関係の土台の形成後、両親が離婚したとしても、そのアタッチメント形成に関与した少数の大人(両親が中心、特に乳児は数名以上の人物を識別できない)との信頼関係は生涯続く。

その信頼関係・アタッチメントの関係は、「面会」などという他人行儀なものではない。それは、近代が形成した価値である「法」以前の力であり、「面会」などいう法律用語は適さない。

つまり、アタッチメントがその後の子どもの他者関係の土台になっており、そのアタッチメント形成に寄与した一方の親がたとえ親同士の事情で自分(子ども)から離れること(離婚)になっても、その決定的基盤であるアタッチメントは消えることはない。

そうした決定的他者との基盤であるところのアタッチメントは、子どもが成長することによって別の言葉で言い換えることにはなるかもしれない。

それは、

ペアレンティングタイム

という、繊細で優しい言葉であることがふさわしいと僕は思う。