「少女フェミニズム」が単独親権を続ける

■「DV阻止=単独親権」を推し進めるフェミニズム

ここ最近、2件立て続けに「共同親権」に関する訴訟が起こされている。2件ともが、共同親権は「基本的人権」のひとつだという趣旨を訴状で述べているのも共通する(共同親権関連資料 訴状(共同親権集団訴訟)子の連れ去り違憲訴訟)。

2通の分厚い訴状をざっと読む限りでも、ここに述べられる「親権=基本的人権=共同親権」は論理的であり、納得できる。

ただしこの問題は、そう単純ではなく、主としてDV支援の立場から共同親権は否定されている。

その経緯は当欄でも以前触れた(DVというブレーキ~共同親権を阻むもの)。ただし僕の議論は、DVも大いに含むジェンダーギャップ低位置国と、少数の単独親権採用国(日本含)が重なることから、むしろ単独親権がDVを生むのでは、と問題提起をしている。

この問題提起とは別に、以前より、「DV加害者=男性・夫」(実際は少数ではあるものの加害側に女性・妻も含まれる)という観点から、離婚しても「親権」という名目で関係性が続いてしまう共同親権に関して、単独親権サイドから強力な反対がある。

いわば、DV阻止=単独親権という発想なのだが、これを推し進めてきたのが、「男女共同参画社会」を積極的に支持してきたフェミニズム、という点も見逃せない。

たとえば、上野千鶴子氏が理事長を務めるWAN(ウィメンズアクションネットワーク)のサイトで共同親権反対の署名活動が行われたことも象徴的だった(署名できます【2月28日】1万人 署名提出記者会見:STOP共同親権 DV・虐待被害者の安全を守って 共同親権法制化は 慎重な議論を)。

上野氏が単独親権支持であることは、これまでもいくつもの場面で述べられている。

■全編ルサンチマン(現状価値の否定)に貫かれた祝辞

男女共同参画社会は、霞が関エリート女性官僚と、上野氏を中心としたフェミニズム/フェミニストたちが推し進めてきたと、この動きの中にいた大泉博子氏が明確に述べている。

男女共同参画は官制フェミニズムだったということである。男女共同参画がなぜエリート女性向けになったかというと、女性のエリート官僚が引っ張ったというのと、当時の社会のバックグラウンドがフェミニズムだったからである。上野千鶴子氏をはじめ、フェミニズムの論客が登場し、リベラルな考え方が社会を賑わせた。エリート官僚と社会のリベラリズムが合体した形で出来上がったものなので、「官制フェミニズム」と名付けてよいと思う。

出典:「男女平等社会」のイノベーション―「男女共同参画」政策の何が問題だったのか―

女性の就業率向上等で男女共同参画政策には一定の成果があったと大泉氏は述べる。僕も同感だ。ただ大泉氏は、少子化対策等での予算配分の問題で男女共同参画政策には難点があったと遠回しに述べている。

その後我が国には「男女共同参画センター」が各地に設置された。また、配偶者暴力防止法(DV防止法)をベースに、配偶者暴力相談支援センターも各地に設置されている。支援施設一覧を見ればわかる通り、同支援センターは各地の男女共同参画センター内にもある(配偶者暴力相談支援センターの機能を果たす施設一覧)。

僕は、大泉氏と同じく女性の社会参加という点で男女共同参画政策には大きな意義があったと思うが、ここに(特にその政策を支えた80年代フェミニズムに)含まれる「ルサンチマン」の思想が、いまに至る単独親権固守の思想につながったと捉えている。

ここでのルサンチマンは、主として男性へのルサンチマンで、現代の「男社会」を否定することから始まる考え方だ。

たとえば昨年話題になった、上野氏の東大入学式祝辞にこんな一節がある。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。

ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。

出典:「がんばっても報われない社会が待っている」東大の入学式で語られたこと【全文】

最後は祝辞らしく締めくくるものの、読みようによっては全編ルサンチマン(現状価値の否定)に貫かれた祝辞である。この「社会の不公正に対する怒り」こそが上野氏の魅力でありフェミニズムなのだが、全編にあふれる男性社会への怒りと諦めは根深い。

■「少女フェミニズム」と「産まない女」

こうしたルサンチマンを抱くフェミニズムは、「娘のフェミニズム」「少女フェミニズム」とも呼ばれているらしい(働く/働かない/フェミニズム 家事労働と賃労働の呪縛?! “自立の迷走”からのフェミニズムの自立のために 金井淑子)。

つまりいつまでも娘の立場で語っていて、社会や親、男に対しての攻撃の仕方が、自分が親、あるいは自分が社会だという認識が欠落しているというのだ。上野フェミニズムがとった「娘の立場」のラディカルさ、「娘の立場」からの母殺しは、自分が次には大人の「女の立場」をどこかで巧みにズラし、結果的には「成熟」を拒否する「少女フェミニズム」につながっているというものである。

出典:同書、p44

このようなある種の「成熟拒否」は、別ページで指摘される、「産まない女」を選択することにより「“産”の思想をつくることには関われない」(p43)という発言とも結びつく。

このように、男女共同参画社会を引っ張った上野氏を中心にしたフェミニズムには、以上のような現状の社会に対するルサンチマン的否定が含まれ、そこから生まれた「少女フェミニズム」があり、その結果として「子ども」が遠い存在、言い換えるとそれは「対象=オブジェ」のようなものとして捉えてしまう。

僕が少し前の当欄で、「子どもはオブジェ~小さな大人でもなく、権利の主体でもなく」とする記事を書いたのは、現代日本では子どもが「権利主体」でもなく「小さな大人」でもなく、それは奇妙な客観的な対象になっていることを言いたかったのだが、子どものオブジェ化は、自分に一生懸命な「少女フェミニズム」にも根付いている。

■共同親権をベースに、子どもも権利の主体として顕在化

つまりは、論理的に考えると合理的でない単独親権が現代ニホンで生き続けているのは、以下の理由からではないか、ということを僕は指摘したい。

1.男女共同参画社会の構築に80年代フェミニストは大きく影響を与えた。

2.だが同思想は「少女フェミニズム」であり、現状の男性社会を否定する。

3.否定の象徴がDVだが、その被害者に少数とはいえ男性が含まれていても、DV加害=男性ととらえ、それら男性が親権を握り続ける共同親権を否定する。

4.その結果、子どもがサバルタン=潜在的対象として、見えない当事者になってしまっている。

冒頭に書いたとおり、近代社会の原理に忠実になるためには上のようなねじれた構図を一度紐解き、共同親権をベースにすると同時に、子どもも権利の主体として顕在化させることが健康的だ。

そして、DV対策も、ルサンチマン的妬みの否定ではなく、クリアに暴力対策を(警察システムを誘導して)行なうことが合理的だろう。