「子の連れ去り」という道徳~共同親権を阻むもの

■日仏会館の討論会

2月17日、公益財団法人日仏会館において、「関係の破綻した夫婦と子の法的関係を考える ―共同親権問題を中心に」という討論会があり、離婚後の親権について、4人の専門家(共同親権派2名・単独親権派2名)が集まり議論した(関係の破綻した夫婦と子の法的関係を考える ―共同親権問題を中心に(人文社会系セミナー討論会))。

大阪在住の僕は仕事のためにそのセミナーには参加できなかったが、Twitterやプログでの報告を読んで、だいたいの内容は把握できた(特に、弁護士の古賀礼子氏がブログで引用する「アカリパパ」アカウント氏の報告が詳しい婚姻中単独親権制を考える)。

実際に現場で聞いていないため討論会の内容への細かい言及は避けるが、共同親権反対のお2方も、1人はそれほど強硬に反対というわけではなく、もう1方は強硬反対ではあるものの「共同養育」や「面会交流」は容認するという素人にはよくわからない主張だった。ざっと読んだ限りでは、全体としては、現在は共同親権へ向けて時間をかけて移行している時期なのだなあという印象を僕は抱いた。

日本は単独親権のため、さまざまな悲劇が日常的に起こっている。

最近では、子を「連れ去られた」たオーストラリア人ジャーナリストが、我が子に会おうとした結果45日間拘束された出来事が話題になった。ジャーナリストは「片親誘拐」というTシャツを着てインタビューに答えている(子どもを訪ねて有罪に…在日豪州人サッカー記者が逮捕。問われるべき日本の重大な人権問題)。

共同親権下のオーストラリアの国籍をもつこのジャーナリスト男性からすると、元妻が子を連れ去っていった行為は「誘拐」である。だが、日本側(元妻・弁護士)からすると「子の連れ去り」(これでも強めの表現だろう)になる。

「誘拐」は特別な見方ではなく、フランスほかヨーロッパ諸国からも、日本の「連れ去り」は誘拐に値すると非難が起きている。

■「(子と)同居したもの勝ち」

なぜ我が国では、欧米からは「誘拐」と厳しくみられるわりには、国内ではせいぜい「連れ去り」と表現されるにとどまり、ついこの間までは離婚時に一方の親(主として母)が子を引き連れて強引に別居することをそれほど稀有な出来事とは捉えられていなかったのだろうか。

言い換えると、なぜ我が国では、子を一方的に連れて家を出ることが、誘拐と捉えられないのだろうか。

この背景には、「監護の継続性」というキーワードが潜むようだ。監護とは実に奇妙な法律用語なのだが、法律世界では普通らしいのでここでもこれを使う。

監護の継続性、あるいは監護継続性は、上の古賀弁護士も登場する記事(離婚後は子どもの環境を最優先、画期的な「フレンドリーペアレントルール」)ではこのように説明される。

監護継続性の原則とは、子どもの現状を尊重し、離婚後もできるだけ環境が変わらないほうに親権を認める考え方。母親が子どもを連れて別居した状況で調停や裁判に入れば、子どもはそのまま母親に養育されたほうがいいという判断に傾きがちだ。一方母親は、家に戻ると、監護継続性を理由に親権を得る戦略が取りづらくなる。そのため子どもを連れて出ていった母親は元の家に戻らず、父親に子どもを会わせようとしなくなる。古賀礼子弁護士はこう語る。

「監護継続性の原則は明文化されていませんが、調停や判決で重視される空気があるのはたしかです。監護継続性という要素が母親による子どもの連れ去りを助長している面は否めません。皮肉なことに、『別居後の子供の現状を尊重する』という姿勢が、本来の『現状』(同居時の養育環境)の破壊を容認しているのです」

出典:離婚後は子どもの環境を最優先、画期的な「フレンドリーペアレントルール」

つまりは、「(子と)同居したもの勝ち」ということであり、換言すると、「家族」を継続したもの勝ちということになる。

この家族とは、つまりは「イエ」だとこの頃の僕は思うようになった。

■「イエの継続性」

監護という名の同居、つまりは「子といっしょに一つの家に住む」という実態をもとに、親権が与えられる。

これは、「子と住む」という行為が、「親」であることを決定するということだ。

「~家」を維持することが家族の維持であり、その権利を握っているもの、「~家」という実体と理念の中心にいるものがすなわち「親」である。

このように、子と同居するものが子の親権をもつという合意が、日本社会の底に流れている。

この考え方は、「親権とは基本的人権である」という考え方と対立する。

近代国家がもつ「権利」という概念の具体的かたちの一つとして「親権」はある。が、我が国の「監護の継続性」はこの近代概念である「親権」よりもっと「手前」に位置する(この「手前」のあり方は、当欄で僕が取り上げてきた哲学的な「潜在的」位置づけではなく、「前近代的」な位置づけとなる)。

フランス革命以後人類が獲得した重大な概念である「権利」より、「いっしょに家に住むこと」の事実のほうが重要視される。

いっしょにイエに住むこと、イエで生活すること、イエで語り合うこと。つまりは、近代概念である「親という権利」より「イエで住みイエを維持すること」が上位概念に置かれる。

これを継続することの重要性が、慣習や規範として尊重される。「イエの継続性」という見えない規範が、我が国に長くとり憑き、近代価値(親であること)を凌駕する慣習として位置している。

■もはや道徳

こうなると、もはやこれは「道徳」だろう。

「人を殺してはいけない」レベルの普遍的な規範が道徳だと僕は解釈している。たとえば「学校に行かなければいけない」は単なる規範なので、時代が変われば(たとえば戦後混乱期など)それは守らなくてもいい。

けれども、「人を殺してはいけない」はどの時代でも共有される価値、つまりは道徳だ。

この道徳を根拠に、「子の連れ去り」が我が国では戦後70年たっても常識化されている。現在はその行為が「子の誘拐」という近代価値に変更されつつある時代だと思う。