冬の朝、楽器が次々と重なる〜『ライ麦畑で捕まえて』を越えて

■ 10代後半の人々が「強くなること」

昨日12月6日の夜、大阪市平野区主催で「『青春』にとまどう若者たち」という一風変わったタイトルのシンポジウムが開かれ、定員50名を大幅に上回る90名が参加する大盛り上がりを見せたのだが、僕もそこに参加し少し発言した。

オモテの議論としては、高校中退予防を進めることでひきこもり等の潜在化を防ぎ、またその支援は高校時代の3年間にとどまらず10年にわたって続き、その10年を維持するためにはどんなネットワークが有効か、といったことが話し合われた。

議論の最終盤では、「高校生/ハイティーンという存在は何か」ということも少し話し合われた。僕は、J.D.サリンジャーの小説『ライ麦畑で捕まえて』を少し引用し、ライ麦畑で遊ぶ大勢の子どもたちが畑の端っこの崖っぷちから落ちないよう「キャッチャー」を1日中努めたいとの夢を持つ主人公(ホールデン・ゴールフィールド)のあり方が、ハイティーンのコアであるという通説を紹介した。

高校生支援を福祉的に考える場としては変わったコメントだったかもしれないが、イベント最終盤でも身体を乗り出して聞かれる人もいらっしゃったことから、それほどピント外れでもなかったのかなと思う。

人々は、自分の苦い高校時代を思い出し、それでも「高校生」というあり方と概念にひかれ、同時にその世代への支援の仕組みを考えることが社会そのものに大きな影響を与えるとおそらく直感している。

我々の社会が直面する困難さを打開するためには、10代後半の人々がそれなりに「強くなること」(体育会系的ではなく、「自分を自然体で肯定すること」的強さ)が近道であると大人たちは直感している。

だから、高校生支援は、「高校内居場所カフェ」への注目度の高さも含めて、人々を捉える。

■「大人側からの夢」

が、実際にディープに高校生支援をしている人(たとえば僕)からすると、実はこの「ホールデンの夢」は、「大人になった高校生の夢の一つ」のようにも感じてしまう。

あるいはそれは夢ではなく、思春期らしい体裁を整えたロマンチックな欲望、のようにも映る。

思春期らしく、カッコつけた自分なりの「大人像」を、サリンジャーはホールデンの口を利用して語らせている。子どもたちが崖から落ちるのを防ぐキャッチャーになりたい、その「夢」は、実際の高校生も語るかもしれないが、そうした実際の高校生のナマの苦しさを日々聞く(スタッフへのスーパーバイズも含めて)僕からすると、そのライ麦畑のキャッチャーのさらに奥底に真の「夢」があるように想像する。

ライ麦畑から落ちる子どもたちを救いたい、そんな人でありたいという物語は、大人になってしまったサリンジャーの夢のようにも映る。

思春期の人々にそんなピュアで無垢な人々であってもらいたいという欲望は、ピュアでもなく無垢でもなくなってしまった(「汚れて」しまった)サリンジャー自身の欲望のようにも僕は感じる。

その欲望を持つ汚れてしまった大人の1人は、僕でもある。また、村上春樹的サリンジャー翻訳家や研究者の欲望でもある。また、野崎孝訳が出版された60年代より綿々と続くサリンジャーファンたちが抱く欲望でもある。

「ホールデンの夢」を圧倒的に支持するこうした大人たちの「大人側からの夢」である、ライ麦畑のキャッチャーは、あくまでも大人が思春期の人々に持っていてほしい夢だと、25年も子ども若者支援の現場に居続けることになった僕としては思ってしまう。

ホールデン、君の夢の奥には、もしかして「もうひとつの本当の夢」があったんじゃないか、と、そんな勘ぐりもしてしまう。

■ ホールデンが語る夢と比べて、その違い

それは、ある高校生と話していて気づいた視点だった。

面談支援のなかで、ある問題の山場に話題が差し掛かり、僕が、「君がこれまで生きてきたなかで最も価値のある瞬間はどんな瞬間?」と聞いたあとのその高校生の応答を聞いて、僕はハイティーンの「本当のこと」のひとつと出会ったように感じた。

その高校生は懐かしそうな表情を浮かべつつ、こんな話をしてくれた。

「わたしが小学6年の頃、なかなか学校になじめなくて、その放課後は音楽室で1人で過ごしていました。それで、あれはなんの楽器だっただろう、吹奏楽部に属していたこともあり、たぶん管楽器だと思うんですが、それをわたしは何気なく吹いていました。

すると、よく知った友達が音楽室に入ってきて、わたしの吹くその管楽器に合わせて、別の管楽器を吹き始めました。そのあと、何人かの友だちが音楽室に入ってきて、打ち合わせもないままその子たちはそれぞれ楽器を持ってわたしに合わせてくれた。

その音は、結局ひとつの曲になっていき、放課後の音楽室を埋めました。この体験が、わたしにとって、今まで生きてきた18年間のなかで最も価値のある瞬間だったかも」

まあ、要約は僕なのでこの言葉たちはスマートすぎるかもしれない。けれども、ホールデンが語る夢と比べて、その違いは伝わると思う。

ある冬の夕方、言葉を超えた楽器の音の重なり、それがひとつの曲になっていく。そして自分は「学校」には違和感を抱く。そんな異分子としての自分を超える力が、生徒たちが奏でる曲にはある。

そこで曲を吹く小学6年生たちは、それぞれ思春期の手前に位置しつつ、大きな不安を抱えていたのかもしれない。

■ 汚れを正面に見据えた自分たちが集まって

その不安の乗り越えは、言葉を超えた演奏だった。「大人」として子どもたちを救うのではなく、小学6年生同士で曲を奏でる。夕日が流れ込むその音楽室で、不登校とかそんなチャチな意味を乗り越えた子どもたちが、ひとつの曲を奏でる。

社会の非情さを予感する子どもたちによる言語外の音の重なり。そこに僕は、キャッチャー・イン・ザ・ライに潜む「大人のロマンティシィズム」を超えた、子ども若者の不安と救いのリアルを感じる。

この「汚れきった社会」を突破するのは、汚れきる前の子どもたちを「上から」救うことではなく、汚れを正面に見据えた自分たちが集まって楽器を奏で、曲を構築し、そのことで汚れた社会に飛び込むこと、だと。

大阪市平野区の昨夜のイベントは、そのような、「高校生支援の彼岸」が垣間見えた瞬間が訪れた稀有なイベントでもあった。