いちごの煌めきとマグカップが居場所カフェにはある~高校内居場所カフェの不思議な力

■いちごやトマトやおにぎりも、ある種の「文化」

8/3(日本大学)と10/20(大阪市西成区)に続き(若い支援者たちのパレーシアオフロードパスで続ける居場所カフェ)、昨日は大阪市の北にある千里中央にて、前2つとは少し規模は小さいながらも超満員の熱気のなか「高校内居場所カフェ」に関するイベントが開かれ、非常に深い議論が展開された。

現在、全国の約50の高校で展開されている高校内居場所カフェだが、それらの多くでは、飲み物やお菓子などが提供されていることだろう。高校内居場所カフェの「元祖」である大阪府立西成高校「となりカフェ」や、大規模型カフェの代表である神奈川県立田奈高校「ぴっかりカフェ」などはそのことを特に意識している。

西成高校では、大きな家庭菜園を運営する方と提携し、いちごやトマトなどをカフェで購入し、高校の許可を得てカフェ利用者の生徒のみなさんに提供している。お昼は、生徒のみなさんが各自で「おにぎり」をつくり、好きな漬物などをおにぎりの中に入れておいしそうに食べている。

こうした、いちごやトマトやおにぎりも、ある種の「文化」であり、家庭でそれらをあまり食べない生徒も存在する。珍しい品種のトマト、各地の漬物、その日の朝とれたてのいちごなどは立派な「文化」であり、これらを食べることは、「文化のシャワー」を浴び、自分の家(乾物やコンビニ食中心も珍しくはない)では得られない貴重な体験となる。

こうした「文化体験」が、彼女ら彼らが大人になった際、DVや虐待を決してしないような価値の育成につながると僕は願っている。

■泣く生徒

そうした狙いとは別に、高校内居場所カフェで時々生じる不思議な現象がある。

それは、居場所カフェにある、いちご、マグカップ、クッキー、チョコレート、またイギリスの70年代の音楽、日本の90年代の音楽、アメリカの60年代の音楽、あるいはコーヒーの香りやオーブントースターの「チン」音などにつつまれる、居場所カフェの空気そのものがつくりだす独特の雰囲気である。

そこには、居場所カフェを利用する高校生たちやスタッフなども、パーツの一部として組み込まれている。

アメリカのフォークソングが流れ、コーヒーの香りが漂い、落ち着いた雰囲気の部屋にある椅子に座る高校生たちとスタッフがぼそぼそとしゃべり、窓からは午後の光が入るその時間と空間のなか、隅に座る一人の高校生(女性)が突然泣き始めることがある。

その涙の原因は人それぞれだが、そうした涙の原因に共通する、「長く長く我慢してきたこと」を突然人に突かれ、その長い間の我慢を否定されたくやしさと反発のできなさと自分の自信のなさなどが混入した感情と衝動がそこにある。

そのくやしさと無力感と自己否定感が、リラックスできるサードプレイス(居場所カフェ)に放課後になってやっとたどり着いたとことで蘇る。

そして目の前に、安心できる大人であるスタッフが静かに座ってくれている。そのスタッフの顔と佇まいに放課後になってふれた途端、身体の奥底から涙が現れる。

■「対象a」

涙と嗚咽はしばらく止まらない。居場所カフェに入って最初に差し出されたマグカップをその高校生は固く握っている。中にはコーヒーかココアが入っている。

また、そのマグカップを手渡したそのスタッフも多少戸惑いながら、涙を流す高校生の横でずっと座っている。肩を擦ることもなく、声掛けもせず、泣く高校生の横に黙って座る。

また、居場所カフェの中にいる何人かの高校生たちも、別のスタッフとともに小声で会話している。

もちろん泣く高校生の存在は意識しているだろうが、茶化すこともなく励ますこともなく、アメリカの古い音楽(たとえばサイモンとガーファンクル)が流れる室内で、お互いボソボソと話したり笑ったりしている。

テーブルの上には、朝採れたばかりのいちごが煌めいている。

そんな光景が30分以上は続く。40分かもしれない。やがて泣く生徒の表情は変化し始め、ゆっくりとではあるがわずかに笑顔を浮かべたりもする。

生徒のそばではいちごが煌めいている。生徒の手にはマグカップがある。その他たくさんの要素が生徒の周辺に散りばめられている。

この場合、特に「いちご」と「マグカップ」は大きい要素なのかもしれない。

泣く生徒のそばにあるいちごがきらめき、生徒が手にするマグカップが、たまたまその生徒を励ましているよう映る。そのいちごとマグカップは、精神分析医のラカンであれば「対象(オブジェ)a」と呼ぶものだと思われるが(言語化/「象徴界」化以前の「世界そのもの」が現れるきっかけ)、当欄はラカン解説の場ではないのでこれ以上は差し控えよう。

■自分だけがんばって生きていかなくてもいい時代が自分にはかつてあった

マグカップは、PTSD的な襲来を受けたその高校生を、放課後の居場所カフェで支える大きな要素になったように僕には思える。言葉や意味以前の世界が高校生を包み込んでいく。その言葉以前の世界の「裂け目」は、「赤ちゃん時代の世界」といっても別に構わないが、自分だけがんばって生きていかなくてもいい時代が自分にはかつてあったことの証でもある。

マグカップを握りしめ、テーブルの上にあったいちごがきらめく。横には安心できる大人であるスタッフが黙って座り、少し離れたところでは数人の友達が何気ない会話をこちらに気遣いしつつ行なっている。音楽はS&G「水曜の朝、午前3時」、いちご、マグカップ。

これら一連の要素が「サードプレイス」であり、これらはファーストプレイス(家庭)やセカンドプレイス(教室)には実はあるようでない。教室にはマグカップ的余計な要素はなく、(経済的下流)家庭にはあまり果物はなく袋菓子中心の場合が珍しくない。

人間にとってある種の「始原的な存在」であるモノや存在は、たしかにオブジェaなのだが、よく考えると慌ただしい家庭や画一的教室にはそれらがないことが多い。唯一、「サードプレイス」だけが、人を始原に遡らせる。そこでの時間が、ヒトに笑顔を蘇らせる。高校内居場所カフェは、どうやらそうした不思議な力も秘めているようだ。

となりカフェのいちご
となりカフェのいちご