変態進化する日本の新自由主義~ベネッセたちの「束」、見せかけの「ソーシャル」

■日本の新自由主義のかたち~怒涛の民間の「束」

大学入試の英語試験の民営化は中止されることになったが(共通テスト版「GTEC」中止へ 英語民間試験見送りで)、これは単なる癒着とか汚職の問題ではない。

これは「経済思想」の問題であり、つまりは平成以来30年近く続いている「新自由主義」の最新形の挫折だということだ。

この事件にともない、その入試導入経過が徐々に明らかになってきている。

オンライン版『ネット新潮』のこの記事(英語民間試験ごり推しの裏に「ベネッセ」の教育利権…高校も大学も逆らえない)では、その決定過程を丁寧に追っている。

記事の終盤ではこんな記述がある。めくるめく固有名の羅列なので、めまいを起こさないようにお読みいただきたい。

「各民間試験とセファールの対応関係を決めるための文科省の作業部会は、メンバー8人のうち5人までもが、GTECのベネッセや、英検の日本英語検定協会など、民間試験を実施する団体の幹部職員でした。民間試験をどう測るかも、民間企業にお伺いを立てて決めているんです。また、作業部会の主査は、日本英語検定協会主催の試験TEAPの開発者の一人、上智大学の吉田研作教授で、主査代理である東京外大の根岸雅史教授や、部会員でやはり東京外大の投野由紀夫教授は、共にベネッセのHPにGTECの推薦者として名を連ねています」

 ベネッセ関係者が目立ってきたが、この程度にはとどまらないという。

「14年12月、中央教育審議会会長として“民間資格・検定試験の活用”という方針を打ち出した安西祐一郎氏は、GTECをベネッセと共催している進学基準研究機構(CEES)の評議員でした。教育再生実行会議委員だった武田美保氏もCEESの理事。元民主党参議院議員で、14年に当時の下村大臣に招聘されて文科省参与に就任、15年から18年まで文科相補佐官を務めた鈴木寛氏は、ベネッセグループの福武財団の理事です。文科省とベネッセグループは一心同体で、“第二の加計疑惑ではないか”という声も聞こえます」

出典:英語民間試験ごり推しの裏に「ベネッセ」の教育利権…高校も大学も逆らえない

■利益相反

たくさんの文科省系の会議体があり、そこに大手民間企業の幹部職員が出席している。

中央官庁の委員として出席するということは「公平性」が求められており、その立場と同時に一民間企業の幹部がその企業の肩書を持ったまま参加することは、いわゆる「利益相反行為」の疑いを呼ぶ。

通常の利益相反は、ある出来事に関して1名の疑い深い人物が存在し、その人物が「公」「民」の2つの立場に立つ。その矛盾する2つの立場が、民への利益誘導の疑いを呼ぶ。

けれども、上の引用文の中の固有名たちは、どれだけ複雑に絡み合い、その結束点ごとに「利益相反」の疑いを呼び起こすか。

めまいがするほど、そこには利益を目指すたくさんの欲望の束がある。

これが、ひとつの「日本の新自由主義」のかたちでもある。

一方、「社会問題の解決」を掲げる動きの中で、結局「新自由主義NPO」が利益を享受する場合もある、というか、目立つ。

それはたとえば、貧困支援の中の「宅食」サービス、民間フリースクールへの行政予算の投入要望の動きへの加担などでチラチラ見えてくる。

ほかにも同様の動きはある。これらの特徴は、社会課題の解決を「民営化」にゆだねるという点だ。

それは、ここ20年以上の「新自由主義」下の体制や思想のもとではいかにも自然なかたちで社会に入り込む。

■新自由主義の思想は致命的に弱い

東日本大震災以降目立ち始めた「社会貢献」の思想を今から振り返ると、その「貢献」にはなぜか行政が外され、民間の参入や民営化が推奨された。

新しい事業の提案は「ソーシャルビジネス」ともてはやされ、いかにも新時代の到来としてメディアはもてはやしたが、いま考えるとそれらは単なる、

「新自由主義の尖兵」

だった。行政予算削減と民間への資金流入、こうした動きの総称である新自由主義が、我が国では「NPO」という存在でカモフラージュさせて巧妙に社会に入り込んだ。

それはNPO的ソーシャルなきれいごとに収まらず、上の企業たちによる複雑多様な利益相反の疑いの動きも巻き込み、それらがいつのまにか自然体、なにかに取り組むときはこうした民営化の努力が必要である、といった勘違いを生み出している。

社会的課題は、民営化ではどうしようもない場合がある。

それは税投入による「公営化」でしかカバーできない場合がある。それは、虐待サバイバーや高齢ひきこもりへの支援に顕著に見られる。これらは「民営化」ではとてもフォローできない。

虐待サバイバーに典型的に見られるように、真の当事者は、民営化支援の中では潜在化してしまう。「サバルタン」化(G.スピヴァク)してしまう。

だが、新自由主義的支援においては、そうした当事者の声を救いきれないため(事業的にメリットがないのでNPOもこだわらない)、安易に学習支援等に向かってしまう。

民営化と民間の力だけではどうしようもない問題と対象がある。

そのことに覚悟を決めることが我々にできるか? あるいは、税の力によってのみ、非営利の力によってのみ、臨める対象があると認められるか?

■悪意のない資本の流入と、見せかけの「ソーシャル」

それを我々は受け入れることができるだろうか?

つまり、「行政予算削減と民営化」という新自由主義の思想は致命的に弱いのだ。

それは、真のマイノリティを排除してしまう思想だ。

現代の日本では、皮肉なことに、結果としてNPOが真の当事者を排除してしまっている。真の当事者を見せかけのミッションでは救いたいと明記しているそれらNPOたちが、新自由主義者たちの尖兵になっている。

日本の新自由主義は「強欲資本主義」ではなく、束のような(おそらくそれほど悪意のない)民間資本の流入と、見せかけの「ソーシャル」という偽善的クリアさによって成り立っている。

新自由主義の元締めであるフリードマンがイメージした新自由主義とはかけ離れた、日本人らしい、純粋でかつ偽善的な姿としてそれは具現化している。