他人とつきあうことが難しくない人々によって、結婚と子どもは当たり前になった~少子化の根源

■ 鶴見済氏のTwitter

ご本人はいまだにその本が紹介されることは不本意かもしれないが、良くも悪くも90年代にベストセラーになった『完全自殺マニュアル』の著者・鶴見済氏がTwitterでこんなことをつぶやいている。

鶴見氏は冷やかしで『完全自殺マニュアル』を書いたわけではない。絶望が前提の人生ならば、その最絶望の具現形である自殺のあり方をリアルに描くことで逆に人生を少しでもポジティブに生きてほしい/生きていたいという切ない願望が同書の基底にあったと僕は解釈している。

その鶴見氏が、誰かと「つきあった」のは30才以降であると告白し、対人関係に悩む人であれば誰かとつきあうことなどできないじゃないかと疑問を呈する。

ひきこもりの人たちを20年近く支援してきた僕も、それはその通りだと思う。ひきこもりの背景に発達障害や精神障害があったとして、それが障害として明確化されていようが不明確だろうが、誰かといっしょに居続けることが困難な人々は確かにいる。

そういう僕も、ラッキーにもバブル世代だったため20代前半で社会に溶け込めたが、平成以降の構造不況の中では誰かとコミュニケーションを紡ぎ、なにかの社会に入り込むことは難しかっただろうと思う。

結婚とは誰かと生活をともにすることであり、出産・育児とは新しい誰かを自分たちの家に迎え入れることだ。その生活では、「誰か」という他者が常時「自己」の中に入り込むことになり、自己の周辺の「壁」には常時穴が空いている。

常に他者が自分の深いところをうろうろしている、それが結婚であり育児だということだ。

■ 結果として「新しい家族の形成(結婚・子育て)」を忌避

これは、精神的に不安定な人には耐えられない。その不安定さの原因は、たいていが「コミュニケーション」であり、24時間コミュニケーションを求められることがどれほどその人を緊張させ疲れさせ閉塞させるか、わからない人(つまり結婚生活が苦ではない人)にはわからないだろう。

鶴見氏は、「そういう苦労を知らない人間が世の中を作ってきたので、結婚も子供も当たり前となっているのだろう」とサラッとツイートする。そう、結婚と子どもが当たり前の社会とは、他者とのコミュニケーションが苦しくない人々が多数派である社会のことだ。

世界がグローバル化し日本で従来の仕事が減少していくと、若者たち(出産や育児を担う人たち)の一部はひきこもり一部はエリート化し一部はマイルドヤンキー化している。

高齢ひきこもりの生き方に極端に見られるように、50才まで独身で過ごし、結婚しないままやがては両親の介護と家事が生活のメインになり、独身高齢者としてその人生を終えるであろうそのあり方は、結果として「新しい家族の形成(結婚・子育て)」を忌避している。

本人たちは結婚したいのであろうが、何かがそれを防ぐことになった。その「何か」は、いまのところは政府の子育て世代への支援のなさや保育政策の硬さなどで説明されている。

■コミュニケーションの性善説

はたしてそうなのだろうか、とこの頃の僕は思う。

上にあげたような、カップリングや結婚や育児を無意識的に忌避する人々の増大は、はたして子育て支援政策が充実することで減少するのだろうか。

フランスでは実際にそうした政策が成功し、少子化をストップできていると反論する人もいるだろう。

けれども、その「成功」には、「共同親権」をベースとしたゆるやかな家族のかたちや、哲学が義務教育に含まれるように、国民の「個」への眼差しのタフさなどが前提となっていると僕は思う。つまり、コミュニケーションのしんどさと楽しさを、制度や社会自身が前提としており、言い換えると「人は人となかなかわかりあえない」というその前提があって初めて機能した諸政策だと思うのだ。

現在極端な少子化に襲われる我が国やアジア諸国の多くでは、このような「前提」がなかなか表面化されにくいと思う。

戦後とゼロ年代以降の高度成長やグローバル化により、我々は知らず知らずに「誰かとカップリングし結婚し子どもを産み育てる」という行為が当たり前になってきた。

だが実は、それはそもそもこの70年ほどの特異な事象であり、ヒトとは、そもそもカップリングできる人もいればそれを拒否する人もいる存在という類なのではないか。

他人とつきあうことが難しくない人々によって、結婚と子どもは当たり前になった。それはここ70年程度の出来事であり、我々の社会はそうした「コミュニケーションの性善説」から抜け出し、ややこしいコミュニケーション(結婚・育児)は拒否していいんだよという、ある種の「優しさに包まれた小さな社会」に戻ろうとしているのではないか。