「主客未分化」な子にとってはメリットのある共同親権

■ボロボロと涙を流しながら

僕は当欄では評論家気取りでいろいろ書いているが、ふだんは不登校やひきこもり、発達障害の子ども・親支援をしている。そのなかでまれにではあるが、最近「別居親」と呼称される、いわゆる「連れ去られ被害」にあった親の面談支援も行なっている。

だいたいはその親は父親なのだが、報道等にあるように、ある日仕事から帰ってくると、本当に子と妻が自宅から消え去っている。

妻の多くは実家に帰るようだ。残された夫は、その日から何年も子に会えない場合もある。

当欄でも度々触れているが、日本では単独親権がとられ、現状は「(子を)連れ去ったもん勝ち」のようだ。ここに夫側のDV加害の事実が被せられ、そのDVの事実性が疑わしい場合でも現在の日本では一度「DV」と疑われた側(多くは父)は圧倒的に不利になる。

僕は面談支援を通して、こうして子を連れさらわれた父の話を聞く。父たちは本当に悔しそうにそれまでの経緯を語る。中にはボロボロと涙を流しながら、それまでの何年間(人によっては10年)か過ごしてきた実子たちとの思い出を語る。

父によっては、子とともに過ごしたスポーツ体験、キャンプ体験などを懐かしそうに語る。そして、徐々にではあるが、自分から心理的にも離れていく子のありようを仕方がないがなかなか受け止められないこととして泣きながら語る。

■子の「生存戦略」

子が別居親に対して徐々に冷たい態度をとるのは、それが子の「生存戦略」だからだ。

連れ去るほどの悪い関係性になった父母のうち、子とともと同居するのは多くの場合母である(父の場合もある)。この「同居親」は、別居と離婚の理由を直接的間接的いずれの言葉づかいにしろ、別居親(夫が多い)に対しては冷淡に超否定的に語る。そうすることで同居親は、この連れ去りを正当化する。

子は、まずは生きていく必要がある。そのため、生きていくことを子自身の本能が身体全体で示し始める。

か弱い子が生きていくということは、つまりは「まわりの大人に合わせる」ことが第一のミッションとなる。食料と住居を与えてくれ、日常の世話をこまめにしてくれるその身近にいる大人、この場合は同居親に「合わせて」いくことが、子が生きていくための第一条件となる。

それは言葉で誰かに教えてもらわずとも人間であり動物でもあるその子ははじめから知っている。

だから別居親に対して冷たい言葉を子は使い始める。直接会わずとも手紙やメールなどで「お父さんキライ」などと別居親を否定する。

否定された別居親は、この冷たい言葉は同居親が無理やり書かせたものだと思いそれまで以上にその同居親を嫌悪する。ついでに、その同居親に対して別居親を今以上に否定するよう差し向けている義理の祖父祖母も嫌悪する。

すべては「子の連れ去り」から始まるのだが、子が示す別居親に対するネガティブな行為が、父母間の関係性の悪化を助長する。

■子は「主客未分化」の段階にいる

子には当然生存権や決定権があるが、そうした近代法以前の場所にも子はまだ住んでおり、法が前提する「主体」「主権」というあり方以前の場所に10才くらいまでは子はまだまだ属しているようだ。

その、主権以前の場所が、生存のために身近な大人に合わせるということであり、そうした身近な大人の行為を真似するということであり、大人に「くっつく(アタッチメントする)」ということである。

生きていくために子は主体以前の存在として身近な大人に自分を合わせていく。そこには「模倣」も含まれ、そうして大人に合わせることで、子は主体性を徐々に確立する。

共同親権や単独親権の議論が難しいのは、ヒトのこうした発達過程がなかなか近代法には含まれておらず、大人と同じような権利の主体として子を位置付けざるをえないということだ。

子は「主客未分化」の段階、身近な大人に「くっつく(アタッチメント=愛着と訳されるが誤訳に近い)」ことで、自分を守り自分を形成する。親権議論は、こうした主客未分化の存在(子)を強引に近代的価値/法のなかに組み込もうとするものだ。

■親は2人のほうが真似する存在の選択肢が増える

本当にDVと虐待がある場合はその暴力親を引き離すしかない。これは近代法の応用のレベルに属し、法と権力(児相や警察)の出番となる。

問題は、そうした近代法の応用のレベルの「手前」の段階で争われる「親権」問題については、強引に片方の親とだけ子とアタッチメントさせることは、子にとっては生の可能性を摘んでることと同義だということだ。

主客未分化な子どもにとって、身近な大人は1人よりも2人いるほうが、真似する存在の選択肢が増え好ましいと僕は考える(このことと、シングル親支援は別の次元にある。上に記した、DVが法の応用のレベルにあることと同義)。

自分の言葉をまだ持たず「語れない」子にとって、語れるための言葉を提供してくれ、かつ自分のことを代弁(ルプレザンタシオン)してくれる存在は、1人よりも2人のほうが好ましい。

それが乳児時代により濃密なアタッチメントの担い手であったもう1人の親(ここでいう別居親)であることはなおさら望ましい。

子が認識できる「大人」の範囲はそれほど多くないはずだ(だから、乳児院や児童養護施設の大勢の職員によるかかわりではアタッチメント形成は難しい)。せいぜい3名までの大人のかかわりによって、子はアタッチメントし、大人(親)を模倣し、言葉を獲得し、価値を形成する。

単独親権でもこうした主体以前の場所でのかかわりは不可能ではないものの、子からするとその選択の幅が1人に限定されてしまう。

主客未分化な存在である子どもを中心に考えるということは、子どもが安心して「くっつく」ことのできる身近な大人(親)を複数配置することだと思う。

自分では語れない「サバルタン」(G.C.スピヴァク)的存在の子どもの立場に立って考えるということは、安全安心な大人を1人ではなく2人にすることが出発点になる。この点で共同親権のほうが子どもには親切だ。