なぜ「コインロッカー・ベイビーズ」ではないのか~「親権」以前

■「親」

現代社会では、日本では民法の中に「親」は位置づけられ、その役割が細かく規定されているようだ。

が、「親」は法を超えた存在だ。あるいは「親子」も法を超えた存在かもしれない。

多くの近代国家では、こうした親子関係や親の位置づけについては、共同親権の立場をとっている。が、ドメスティックバイオレンス(DV)事例を中心とした要支援の事例を根拠に、日本では、単独親権であり続ける。

そうした法律議論は、僕はホンネでは興味がない。が僕は虐待サバイバー支援も時々行なうことから、法的議論も目にしてしまう。

DV支援弁護士たちは、凶悪なDV親(主として父あるいは義父)から被害親(主として母)を守るために、単独親権の立場にあるようだ。裁判所関連の人々も、どちらかというとこのDV被害親の側に立つことが多いという。

虐待サバイバー支援(DVをふるう親の子への支援)を行なう一人としての僕はではあるが、こうしたDV被害者に寄り添うためにシンプルに単独親権派にはなれない。

単独親権派になり支援するとそれなりの経済的見返りがある、思想的にフェミニストなので単独親権派になる、ということが無理なため単独親権を拒否しているのではない。

子の問題を問われた時、僕はどうしても独特な法律用語(高葛藤・監護者等)を使うことにためらってしまうことも単独親権派にならない理由ではない。

むしろそうした法律用語は廃棄すべきだと思う。単独親権か共同親権かの議論に巻き込まれた時、これらの法律用語を巻き込まれた人々は使いがちのようだ。

が、そんな法律用語を使用する前に、法が法として成り立つ前に、基礎的概念として「親」という言葉はある。あるいは「親子」としう概念が存在する。

これはすこぶる哲学的領域なのだ。

■「親権」

そもそも、「権利」と「親」をひとつの言葉としてまとめること(「親権」)は、いつから人間社会の同意事項となっているのだろう。

よく考えると、親になること(子をもつというと)は子の養育を背負わなければならない、ということでもない。

勝手に子をつくり、その養育は最初から放棄することもしようと思えばできる。

子を持つ=子を育てることではないという考えを否定することも可能だ。つくり逃げ、もアリということだ。

だが我々の多くは、つくり逃げはしない。虐待を行なう親であっても、それは虐待ではなく「しつけ」だと最初は言い訳をする。虐待する時間と手間があればさっさと子を置き去りにするほうが合理的だと思うが、虐待親はその合理性を選ばず子に多くのこと(泣くな、走るな等)を求める。

子どもという存在がもつ不可思議(泣いたり走ったり)が理解できなければさっさと置き去りにすればいいのに、しつけ=虐待という行為によって、時に死に至らしめるほど子を追い詰める。

この、子への固執はどこからくるのだろう。30年以上前に話題になり小説にもなったコインロッカー・ベイビーズコインロッカー・ベイビーズではなく、なぜ無理な子育ての結果としての虐待を若い親たちは選んでしまうのか。

■コインロッカー・ベイビーズは例外?

子は親に「くっつく」。このくっつきが2才までに行なわれることをアタッチメントという(和訳は「愛着」だがニュアンス的に誤訳)。

このくっつきのディープさの有無で、その子(人間)がもつ他者への信頼度の「深度」が変わると言われる。アタッチメントを享受した子(人間)は、思春期後も他者を信頼することができる。だが、虐待等でアタッチメントを獲得できなかった子(人間)は、死ぬまで他者との関係性に苦しむ。

なぜか、親は子に臨んでしまう。子に対して「臨床」してしまう。子をつくることと子を育てることを分離しても論理的には矛盾はないが、無理な子育てをなぜかしてしまう。

むしろ、コインロッカー・ベイビーズをしてしまった若い母たちのほうが例外だったのかもしれない。

親は、子育てが無理であるとどこかで自覚していても、子育てしてしまう。そして虐待する。

虐待はさておき、親になると子(乳幼児)に向き合ってしまうようなのだ。

環境によっては、その向き合いが時として虐待になる。環境によっては、その夫婦関係はDV になってしまう。

けれども、子に向き合おうとする。同時に子は、最も身近な成人(ほとんどは親)に身体のすべてを合わせ、身体のすべてで模倣し、10年近くかけて自我を獲得していく。

つまりは、「親のもつ権利」以前に、その関係性のディープさは存在する。権利云々の近代的価値以前に、「親子」とはディープな意味を持つ。

コインロッカー・ベイビーズを選択できた若い親たちはむしろ例外で、ドメスティックに我が子を囲い込むほうが自然かもしれない。そこで生じる「親子」はある種普遍的で一般性をもつ。それ(親であること)は、単独か共同かの近代的枠組みを超え、概念としてすべての親に与えられている。