「働かなくてもいい」という提案があって初めてバランスがとれる

■不思議だ

ここのところ、「働けない人は働かなくてもいいんじゃないか」的記事を連続して書いているのだが(働かなくてもいいよ~就労や自己責任の呪縛から解き放たれよう、ほか)、先月集中的に投稿した「9月1日に自殺する子どもたちを守ろう」的記事群よりもはるかに多くの感想が寄せられている。

それらには「よくぞ言ってくれた」という感想もあるものの、その多くは批判的なものだ。

それらの批判コメントはおもしろくて、批判者の日常は非正規雇用であるらしくおそらく食べていくのもたいへんだと想像できるのだが(はっきりとはわからない)、現在の日本経済を「俯瞰的に」みて、働かないことは非常識だと憤っていらっしゃる。

不思議だ。そもそもは、政府が掲げる40才以上への古臭い就労支援(「氷河期世代」を集中支援=安定就労へ3年計画策定-諮問会議)への批判的考察として、こうした「就労」へのそもそも論を僕は提起した。

氷河期世代=現在40才前後の高齢ひきこもりをいわば守るために出した「そろそろ『働くこと』から降りてみては?」という提案に結構反発したのが、当の40才前後の氷河期世代だった。

そして、それらを支援する就労支援者たちも「働かなくてもいいとは何事だ!」的怒りで僕に感想を述べられている。怒らない人であれば、嘆き的なニュアンスで僕に意見を述べられる。

■「働かなくてもいい」提案に、当の氷河期世代が反発する

不思議だ。

僕が「働かなくてもいいよ」と述べた時、それがもしも現実化したときいちばん恩恵を受けるのは、それら氷河期世代の方々のはずだ。だから、もう(おおむねブラックな)現在の就労環境には疲れたから、働かなくていいのはありがたいとなってもいいと僕は思っていた。

それが、「働かなくてもいい」提案に、当の氷河期世代が反発する。その反発の内容は、「(たとえば生活保護の)財源はどうする?」「日本経済を活性化させるほうが先だろう?」的マクロな視点からの反発だった。

わからないではないが、そうしたマクロ的視点、哲学的に言えば「『大文字の他者』的視点」を掲げることにより隠蔽されるのは、個々の「単独的な視点」になってしまう。

世界でただ一人のその「わたし」に対しての救済策の提案(ここでは「働かなくてもいい」)が個々のレベルで否定され、その否定の根拠としてもってこられるのが「大文字の他者=社会=『一般論としての我々』」だというのは皮肉だ。

単独的なマイノリティへの視点が、一般的な我々の社会の論理により覆い隠されてしてしまう。世界でただ一人の「あなた」に対して提案されているある種「非常識な提案(「働かなくてもいい」)」が、一般論的な常識を持つマジョリティだけではなく、そうした常識を持たされてしまっているマイノリティによっても否定される。

これも、ひとつの一般的傾向ではある。多数派=マジョリティの視点(働く=善)を支えているのはマジョリティだけではなく、マイノリティ(ここでいうと非正規雇用労働者)も含まれること。一般論的傾向が、ここにも応用されてしまう皮肉。

■働くことがつらい人は働かなくてもいいんだよ

だから、僕は思う。マジョリティの常識である「働くこと=善いこと」「働いて当たり前」という価値が我々の想像以上に深くこの現代社会に浸透しているのであれば、それのカウンターは非常識過ぎてもまったく問題はないと。

むしろ、そのカウンター提案は非常識である必要がある。誰もが反発し、「そんな提案、絶対ムリだ」的に思ってしまう程度に印象付けられて初めてそれはパワーをもつ。

特に、パラダイムチェンジ(数世紀に渡る価値を転覆させること)と関係する提案であればなおさら、だ。

だから僕はしつこいほど提案しよう。

働くことがつらい人は働かなくてもいいんだよ、と。

このような極端な提案があって初めて、社会の価値のバランスがとれる。