8月31日の夜、川のほとりで待って、歌って、走る

■川のほとりにいる10代には希望はない

古いマンガに『リバーズエッジ』(リバーズエッジ 岡崎京子)という作品があって、登場人物たちは、夜、川のほとりで真っ暗な空間にいつも佇んでいる。

このマンガを批評するつもりはない。そして、岡崎京子という伝説の漫画家のことを語るつもりもない。

ただ、このマンガは、ギリギリなところにいる若い人たちのことをうまく表している。ギリギリなところ、ギリギリなコミュニケーション、ギリギリなことば、ギリギリな視線。

夜、このマンガでは、川のほとりで主人公たちはタバコを吸う。あるいはライターに火をつける。その、暗闇の中のともしびには何の希望もない。

そう、一部の、川のほとりにいる10代には希望はない。

それが、基本だ。

■彼女ら彼らは、待ち、歌い。走っている

では、彼女ら彼らは、8月31日の夜、川のほとりで何をしているのだろうか。

まずはやはり、「誰か」を待っている。誰か、自分に声をかけてくれる誰か、他者を待っている。憎まれ口をたたき、超無口で川のほとりに佇みながら、それでも誰かを待っている。

また、彼女ら彼らは、なにかを「歌おう」としている。最初は小さな声でつぶやくようにして歌う。その声は、やがて大きな声となって、その待っている誰かに届けとばかりに、声を張り上げる。

やがて全力で大声で歌おうとするものの、もちろん怒鳴り声になるはずもなく、実際には小さな声でつぶやきつつ、鬼気迫る呼吸で、うたを歌う。

また、彼女ら彼らは、リバーズエッジ を走る。全力で走る。本音を言えば、誰かと手をつないで走りたいが、今のところ手をつなぐ相手はいない。

けれども、手をつなぐ相手を空想しながら、全力で川のほとりを走る。

そう、彼女ら彼らは、待ち、歌い、走っている。

そこにはいずれも、「誰か」が想定されている。

■親、というあなた

リバーズエッジ 。生と死の境目に、彼女ら彼らはいる。不思議なことに、身体の2/3は死のほうに突っ込みながらも、残った1/3は誰かを求めている。歌い、走っている。

それが、あなたにはわかるか?

今月僕がYahoo!ニュース個人欄に書いた3本の記事の「あなた」は、すべて彼女ら彼等10代の人々を示していた。

だが今回の「あなた」は、通俗的な現代社会で日々生活の苦労の中で生きつづける大人たちを示している。

リバーズエッジにいる彼女ら彼等は誰かを求めており、そりゃあその誰かがジョンレノンやサリンジャーであれば最高だろう。全盛期の佐野元春でもいい。

けれども、そんな人々がここにいるわけがない。

現実としてここにいて、あの彼女ら彼等の前に現れ、その歌を聞き、一緒に走ることができるのは、つまりはあなた、

親、

というあなたなのだ。

そう書きつつ僕は諦めている。けれども、彼女ら彼らは、明日8月31日の夜、誰かを待ち、その誰かに歌い、誰かといっしょに走ろうとしている。

それは、彼女ら彼等にとっての身近な大人、親であるはずはない。いつか現れるであろう、親友であり恋人だ。

けれども、あなたたち親に対して、「わたしの気持ちを知ってほしい」という痛切な願いはある。

できればそれを聞いてやってください。短時間、ユーモアとともに。

『リバーズエッジ   愛蔵版』表紙
『リバーズエッジ 愛蔵版』表紙