9月1日の黒い魔法をとく~「クッソ、生きてやる」

■9月1日に死ぬ10代が131人という事実は揺るがない

今年も9月1日がやってくる。

当欄は今月は9月1日特集のようになっているが(君は屋上に行く?~9月1日が、18歳以下の自殺の半数以上を占めることについて「生きろ。」の嘘くささ~9.1と131人の10代の死)、18才以下の自殺数が250人、そしてそのなかでも9月1日に死ぬ10代が131人という事実は揺るがない。

学校の始まりが9月1日でなくなってから久しい。特に今年はサミットがあった関係で、夏休みがさらに短くなっている。

だから、2学期は多くの学校ですでに始まっている。これは小中高と通して同じ傾向だそうだから、18才までの子どもたちはすでに再開した学校へ通っている。

が、死ぬのは9月1日を選ぶ。

これは僕はよくわかる。9.1は学校再開の象徴であると同時に、「夏の終わり」の決定打でもある。

ある意味「祭」である夏が、9月ということばとともに完全に終わる。「涼宮ハルヒの冒険」では、「エンドレスエイト」という回が執拗に反復され(8回も)、いま追悼の最中である「京アニ」の心意気を示した作品だった。

そう、京都アニメーションは、若者のこころをやはりわかっていた。単調な日常を8週間も繰り返して描き、その夏の終わりの悲しさを、京アニ節で追悼し続けていた。

■毎日が黒い魔法にかかっている

僕も、高校生の頃はほぼ毎日自殺することを考えて過ごしていた。ビルから飛び降りる、JRに身を投げる、麻縄で首を吊る、よくわからないがキツそうなクスリを大量服用する、貧弱な17才の想像力をフルに働かせて死のうと毎日思っていた。

高校は嫌だった。

ことばを大量に獲得してしまったいまの僕からはいくらでも説明ができるが、当時の僕はそんなにことばをもっているわけではなく、なんというか、怒りと寂しさと孤独がごちゃまぜになって日常がいやだった。

毎日が黒い魔法にかかっているような状態だった。なぜか僕は生き残ってしまったが、あの黒い感じ、延々繰り返す夏の日々と、すぐにやってくる9月1日の現実。同時に、秋の虫が鳴きはじめ、日々涼しくなっていき、宿題の締め切りや学校の再開を促すおとなたちの呼びかけ、ああ「夏が終わった」というあの終末観、それらがいっせいに押し寄せてくるのが、今週、8月の最後の1週間だ。

■「生きろ。」ではなく、「クッソ、生きてやる」

上から目線の「死ぬな」ということばにはなんの説得力もない。

ただ、こんな歌には、17才だった僕も少し耳が惹きつけられそうだ。

「クッソ、生きてやる」

これはZOCというグループの「family name」という歌で(family name)、一部の10代の共感を呼んでいるようだ。ユーチューブの動画を見ても、その真摯さは55才の僕にも伝わってくる。

糸井重里考案といわれる「もののけ姫」のコピー「生きろ。」的上から目線のメッセージでだはなく、「クッソ、生きてやる」はかっこいい。

学校に行かなくていいよと言われても、現実にはそんなに簡単に振り切ることは難しい。だが行ったら行ったで、怒鳴りまくる教師たちの言葉が呪いのようにふりそそぎ、どうしようもなく凝り固まってしまう。

そりゃあ大人たちがいうように、わたしだって生きていきたい。けれども、八方塞がりなことは事実なのだ。

けれども、時々「生きてやる」的発想が自分にも襲いかかる。いやなことだらけだけど、生きるしかないもんなあ、もう的な。

つまりは、アホらしいけど生きるしかないよ、もう。といった、諦めとポジティブが一緒になったような感情。それが「クッソ、」なんだろう。それが「生きてやる」なんだろう。

あの9月1日の黒い魔法は、なぜか時々やってくる「クッソ、」というやけっぱち感によって吹っ飛ばせることもあるようだ。黒い魔法なんて、結果オーライでいいから吹き飛ばしてしまえ。