人間も「愛」を与えて受ける存在になれる~やすとみ氏の「子どもを守る」

■「愛着」は誤訳

前回の投稿(愛の馬~やすとみ氏と虐待サバイバー)はもう10日前になるが、アクセス数は僕としては平均的なものではあったが、熱くてポジティブなご感想をいくつもいただいた。

それは、

「虐待ほかの理由で『他者への信頼』が築けなかったとしても、残された能力であろう『他者への愛』で十分カバーできる。その愛の主体と対象は、れいわ新選組のやすとみ氏の場合は『馬』だったが、他の動物の場合もあるし、植物の場合もあるだろう」

という意見に集約される。

虐待は当然のこととして、人は何かに大きく傷ついている。トラウマを抱いている。それが幼少期であればあるほど深く当人に刻まれ、「愛着」と誤訳されるアタッチメント(「くっつき」あたりが近いという)を形成されないまま思春期を迎える。

なかには、言葉の暴力や身体への暴力を超えて性的虐待の被害者もいるだろう。それは不思議なことに加害者/多くは親への逆恨みではなく、親への隷属として思春以降顕在化してくる。

もちろん最大の力を絞って自分の性的虐待の被害体験を訴える当事者も存在する。けれども、そんな彼女ら彼らにしても親への複雑な感情を抱き続ける。

すべては加害親が悪いが、その加害親にしても子どもの頃は被害者子どもであることも珍しくない。

隷属を強いられた者が、自分の子に対してなかば無意識的に隷属を強いる。親の「所有物」だった子がやがて大人になり親になったあと、我が子をモノのように「所有」する。その所有の一現象として虐待はある。虐待されながらも親の所有物である子は、所有者である親に対して隷属していく。

■自分への信頼も薄くなる

そのような場合、他者への「信頼」感が薄くなっていく。また、自分への信頼(言い換えると自己肯定感)も限りなく薄くなる。と同時に、所有者である親への隷属感は薄くなることはない。

この複雑な「信頼の薄弱と親に対する被所有感」という二重のどん詰まり感を打破するのが、「愛」である。

「れいわ」であり東大教授のやすとみ氏は、性的マイノリティのカテゴリー化を拒否するほど、もっとラディカルである。だがここでは、氏の言う「子どもを守る」の裏にある、「すべての他者への愛」について言及していく。

信頼の獲得を剥奪された子どもたちが、超不器用ながらも、なぜ「愛」を志向するのだろうか。

その愛の獲得は10年単位を要するとはいえ、ゆっくりと当事者たちはそこに向かいそこに立ち止まっているようにも僕には思える。

それはやすとみ氏のように「馬」かもしれない。他の当事者は猫であったり小鳥であったり様々な植物であったりするだろう。

それらを10年単位のゆったりとした時間の中で愛し続ける。

それら(主として人間でない動植物)は決して裏切らない。人間のように「意味(言葉)」を伝えることはないが、言葉外の自然そのものをそれらは自身の存在をもって提示する(猫の身勝手なふるまい、小鳥の早朝のさえずり、植物の太陽光への対峙等)。

それへの愛の持続が、不思議なことに虐待サバイバーを癒やしていく。

■学校は「愛」を提供できない

幼児期に他者への「信頼」を奪われた人が、別のフェーズで他者(動物や植物含)への愛を失わず維持し続け、長い時間の中でのその「愛の交流」によって自信を得る。強くなる。

いま現在、虐待の被害にさらされている人/子どもは、他者への愛どころではないだろう。最大の他者である親は、自分を所有し虐待し、その被所有物である自分は、児相の一時保護よりはそうした親の所有を選ぶ。同時に「信頼」の形成が欠落していく。

被害者であり当事者は、ある世界(たとえば学校)では、他者(この場合同級生等)を翻弄したり愚弄したりグループをかき回したりする。信頼の欠落は規範の欠落でもあり、その当事者の社会的信用性はその世界(学校等)ではどんどん落ちていく。

規範に満ち溢れた古い学校世界は、複雑な当事者たちの気持ちには寄り添えない。当然だが、学校は「愛」を提供できない。

「信頼」を奪われた当事者は愛の力はまだ失ってはいない。その愛を受け与える者は、動物や植物だけに任せていいのだろうか。

我々人間も、その愛の受け手と与え手になってもいいのではないだろうか。

僕が想像するには、やすとみ氏の言う「子どもを守る」は、人間も愛を与えて受ける存在になれるんだよ、ということを示唆している言葉なんだと思う。