自分は死なない~諸事件の裏に見え隠れする親たちの価値観

■親たちの行為

親が子どものひきこもりの「その先」を心配して(犯罪行為をするかもしれない)子を殺す(練馬区の事件)、子の犯罪の連帯責任的に職場の役職を辞す(大阪のピストル強奪事件)等、親たちの行為に注目が集まる。

これらに接して僕は、高齢化する人々(親)が追い詰められている感じを想像する。練馬区の事件もそうであるが、これはひきこもりの8050問題ともリンクしている。

親たちは、おそらく専門家たちから、社会適合することを善とするその旧弊な価値観を修正するよう迫られていたと思う。

仕事をすることが善、納税することが善等、世間的にはメジャーな価値を信じて疑わない親たちに対して、身近な専門家たちはそのリジッドな価値観をまずは変更せよと迫ったはずだ(僕ならそうする)。

が、親たちはなかなかその常識的な価値観を変更できない。当たり前だ。親たち自身が、その旧弊な価値の中でサバイブし、成功してきたから。その成功の土台であるメジャーな価値(「仕事=善」等)を崩すことは、自分の人生を根底から揺るがすことにつながる。

だから、その価値観を変更することは困難だ。

■この世界への未練

その価値観変更の困難さには、もうひとつ、親たち自身がもつ「この世界への未練」というか「死という事実の忘却」があると、この頃僕は思うようになった。

つまり、親は、自分がすぐに死なないと思っている。80才になってもそう思っている。

人生とはそんなものだ。僕もたぶん、80才まで生きることは困難にしろ仮に生きることができればそう思うだろう。自分はすぐに死なない、本音を言えば100才まで生きたい。そんな自分からすると、そんな「生」にしがみついている自分からすると、仕事をしないことは許されない。

だから自分の子が不穏な行ないをしていると察知すると、社会防衛的に自らが行動する。過激な人は子を殺害する。

これは、殺人者(親)が年老いてもまったく世間的なメジャーな価値観から脱していないことを示す。

また、自分の子が犯罪をしてしまったとき、会社を辞めることで連帯責任をとる。その常識的な行為は、さて、常識的だろうか。成人になった子と自分の人生とはまったく別のものであると公言して現状の立場を維持するという価値も、別に存在することはできる。が、多くの親たちはこのように連帯責任的に社会的ポジションから下りるだろう。

これらは、親たち自身が「自分は生き続ける」という素朴な信念を抱いていることから生じる事態だと僕は思っている。

(90才になっても)自分は当分は生きる、生き続ける。生き続ける以上は、世間のメジャーな価値(「働くこと=善」等)に従い続ける。

自分は死なない。だから、自分の価値は永遠に変更不要で、それに子の価値も従う必要がある。

■自分は今死ぬかもしれない

ここでいう親たちは、60~70代なのだろうが、「現在の生」のなかにいる。つまり、当たり前であるが、自分は死んでいない。

ということは、現状のメジャーな価値観の中で生き続けている。

もうひとつの生き方は、仮に思考実験すると、ある。それは、犯罪前の子に対して自分(親)のメジャーな価値観をさらけ出し謝罪することだったり、逆に犯罪を犯した子を裁判中に罵倒することだったり、自分自身(親)が四国88ヶ所の巡礼の旅に出てそれに子を誘うことだったりする。

いずれも非常識だ。

まだまだ多様で非常識な生き方はあるだろうが、いずれも現在の「生」(肩書き等)から自由であることが求められる。言い換えると、自分はいつでも死んでもいい、死ぬ可能性は今ここにあると受け入れることが求められている。

そうした覚悟の決まった人の言葉は重い。どんなひねくれたひきこもりの人に対しても、それなりに重く響く。

現在、親たちの言葉に説得力がないのは、そうした覚悟、つまりは自分がいま死ぬかもしれないという可能性に対する覚悟が薄いからだと僕は思う。

そんな覚悟(自分は今死ぬかもしれない)が親にあれば、その言葉は変な重みをもち、子どもたち(多くは30代~40代だが)の心をとらえると思う。

親御さんに、

自分は今死ぬ可能性がある

という覚悟を僕はもってもらいたい。