■フォークナーではない

僕は今年55才なので、不本意ながら(あの時代が嫌いだったから)バブル世代に属しており、ながらくその上の世代、つまりは全共闘世代を含む団塊世代たちがうっとおしくて仕方がなかった。

それがやっと、団塊世代が70 代となりおとなしくなってきたなあと安心していたのだが、意外や意外、その子どもたちである団塊ジュニアたちの存在がこの頃は父親世代(残念ながら母たちは影が薄い)以上に暑っ苦しくなってきた。

団塊ジュニアは狭義では70年代前半、広義では70年代全般に生まれた人々を指す。この世代は、就職氷河期に20代前半を送った「ロストジェネレーション」と呼ばれる「元若者たち」と重なることから、この頃は団塊ジュニアというよりは「ロスジェネ世代」とも呼ばれるようだ。

文学オタクの僕などは、ロスジェネと言われると、本家本元のアメリカのロストジェネレーションを想起し、ヘミングウェイというよりはフィッツジェラルドやフォークナーを思い出す。特にフォークナーの『響きと怒り』はマイフェイバリットの一冊なのだが、日本のロスジェネにはそうした芸術的モニュメントも見られない。

ただし、日本のロスジェネにはひとつ特徴がある。それは、勝ち組と負け組に極端に分かれることだ。

負け組は、ニートとかひきこもりとして表象されており、特に近年は「高齢ひきこもり」として少なくとも60万人、僕の実感では40代以上でも100万人以上は存在すると確信している。

勝ち組のほうは、ご存知、あの方やあの方、あの方にあの方等、ネットだけに止まらずテレビや新聞等のオールドメディアにも頻出する方々が含まれる。それらは「勝ち組」にもかかわらず世間的に物議を買う発言を繰り返し、炎上商法も厭わない。

そこにはある種の「くらやみ」があるように僕には思える。

■ある種の「くらやみ」

その父世代が派手だったので今のところ目立ってはいないが、彼らは独特の価値観を持っている。以下のような価値観をざっと思い浮かべることができる。

■「代表」していない

これは価値観というよりは立ち位置なのだが、高齢ひきこもり支援も行なう僕からすると、案外重要だ。

それは、日本版ロスジェネというのは90年代後半からゼロ年代前半にピークを迎え、その結果として「ニート」という言葉が生み出されたあの就職氷河期の時代、その「被害者」が、70年代~80年代前半生まれの人々を指しており、それらが当時「ニート」と呼ばれて要支援者として位置づけられた、ということだ。

ひきこもりという言葉がありながら、ほぼ同じ人たちをニートと呼ぶ奇妙さに当時の僕は違和感を抱いたものだが、日本の経済的事情から同じ人々を呼び直したという点では、まあ悪くはなかったかな、と思う。

日本版ロストジェネレーションという現象の「ロスト」の意味は、まずは「働くこと」がロストされた人々を指す。それを当時の経済学者はNEET(就労も教育も職業訓練にもついていない人々)と呼び、それまで同じ人を「ひきこもり」として支援していた精神科医やカウンセラーは渋々受け入れた。

つまりは、日本版ロスジェネとは、ニートあるいはひきこもりの方々を指し、同世代で「勝ち残った人々」を指すわけではない。いまも非正規雇用4割社会の我々の社会の中核にいる「負け組たち」をロスジェネは指し、同世代とはいえ激動の時代に勝ち残った人々を決して指さない。

そんなことはいま40代の高齢ひきこもりや元ひきこもりの人々に聞けば当たり前のことなのだが、不思議なことに、勝ち組までロスジェネとしてメディアは美しく括る。その結果、それら勝ち組に対して複雑な思いを抱く人々(高齢ひきこもりやニートたち)は、潜在化していく。

■新自由主義的なイノベーション

ロスジェネ勝ち組たちは、それぞれのジャンルで「イノベーション」を構築している。

だが、制度の根幹に対して疑問符を投げかけることはあまりしない。

おもしろいことに、彼ら彼女らの父たちは、制度や社会そのものに対する疑問を投げかけた。それらの投げかけはすべて不発に終わったものの、態度としては根源的だった。言い換えると、「革命的」だった。

その息子娘世代であるロスジェネ勝ち組は、父たちが投げかけたような革命的呼びかけはしない。

それは僕にもわかる。革命はマッチョであり非現実的であり暴力的であり失敗する。失敗が確実なものにチャレンジするよりは、より現実的な変革に賭けたい。

その現実的変革が、結局は「新自由主義」的なものになっている。

それらの皮肉は当欄でも度々指摘している(「素朴」で「残酷」な新自由主義者たち~現代の子ども若者支援)。

父が失敗した革命を嫌った結果、現代的資本主義の先端である新自由主義的立場に陥っている。ロスジェネ勝ち組からすると「究極のイノベーション」のはずが、単なる新自由主義的体制順応変革の一部となって具現化している。

皮肉といえば皮肉だが、感性が鈍いといえば鈍い。

■ルサンチマン

このようにみると、ロスジェネ勝ち組のトライは、その父世代である団塊世代へのルサンチマンであることがよくわかる。

本当は「革命」(社会制度の根源的改革)を志向しているはずなのに、それは「そこまでは無理なこと」とし、目の前の体制順応型提案を根源的改革として提示する。

それは、イソップ物語のあのキツネが、頭上のブドウにはジャンプしても届かないため「あのブドウはマズイ」と価値転倒されることと同じだ。

哲学者ニーチェによると、ルサンチマンはネガティブである。ロスジェネ勝ち組はネガティブなのだ。子どもを抱っこして笑顔を浮かべる彼らは、どこかで屈折している。

■社会の断絶の根源

そうした屈折が、彼らの発信の隅々に見られる。特に、団塊世代やバブル世代への無条件の反発、自分たちの事業を邪魔する言説や立場へのあからさまな攻撃にそれは見られる。

この反発が、結果として社会の「断絶」を生んでいる、と僕は思う。

攻撃される団塊世代やバブル世代との亀裂はもちろん、彼ら勝ち組が同世代と頼っているはずのロスジェネ世代間でも、「負け組」たちは冷めた目で突き放す(実際、元ひきこもりの人々からそうしたトークを僕はよく聞く)。

つまり、彼ら「ロスジェネ勝ち組」こそが、この社会の断絶を生んでいるようにこの頃僕は思えてきた。

個性ある彼らと議論してもあまり進展はないと思うので、手っ取り早いのは彼らが早めに引退して、ありあまる資産を元にヨットで世界クルーズの旅に出るか、寄付長者となってビルゲイツ2になれば、この社会の断絶(階層化)は少しマシなものになるかもしれない。