高校生は傷つきながらも静かに日常を過ごすことを知っているか~アメトークと西成高校

■アメトークと西成高校

いろいろな仕事でバタバタして恥ずかしながらfacebookで知ったが、あの人気番組「アメトーク」が、僕も高校内居場所カフェ「となりカフェ」で日々お世話になっている大阪府立西成高校を差別したとして問題になっている。

その経緯はこの記事(「アメトーーク」でテレ朝謝罪 大阪・西成へ差別的表現)に書かれており、当の西成高校山田校長の真摯な意見はこの記事(「西成に育ったら、それは罪ですか?」 『アメトーーク!』で差別的表現、西成高校の校長が問いかける。)で表明されている。

この出来事に対して僕が共鳴した感想記事は、知り合いの武田緑氏によるものだ(「西成?西成高校?実際やばいじゃん」という人に知っておいてほしい3つのこと。)。

これら以外にも、今回の事件に対して批判的なコメントは寄せられており(Twitterでは「炎上」しているが)、僕は概ね武田氏や山田校長に賛成だ。

■微笑を浮かべる

上に書いた通り、Twitterでは炎上している。「西成」ということばに触発され、今風のヘイトも含まれたたくさんのプチ意見(なかにはモロ差別もある)が現れては消える。それがまさに「現代」でもある。また、テレビ朝日がすぐに謝罪するのも現代ということでもある。

西成や西成高校的な象徴的な言葉がターゲットになった時、現代ではネットで炎上し、答えのないやりとりが繰り広げられる。それがやがて終息していくが、そのやりとり(特に差別を冷静に指摘し現代の社会構造に問いかける武田氏のような議論や、当事者をいちばん近いところから「代弁する」山田校長のような議論)は必要なのだ。

それら必要な議論が行なわれている面とはちがう場所で、当事者たちは静かにうつむいている。

そして、微笑を浮かべている。

そして、沈黙している。と同時に、日常の生活を淡々とこなしている。

ここではたまたま「西成高校」が事例に上がっているが、このような差別や炎上や冷静な指摘や糾弾や批評が大人たちの間で交わされている時、当事者たち(今回であれば高校生やそのOGOBたち)は、傷つきながらも日常生活を送っている。

そこで怒る人もいれば、諦めて微笑を浮かべ首をかしげる人もいる。その間音楽を聴く人もいるし(ジャズからパンク、AKBやジャニーズまで)、テレビや映画を見る人もいれば、ネットでニコニコ動画のゲームプレイ画像や「パプリカ」を見て踊る子ども若者もいる。

■この傷つきは誰にもわからない

つまりはみんな傷ついている。その傷つきは医学的にはPTSDの原体験となるが、PだろうがTだろうがSだろうが関係ない。ただひとつ言えるのは、

この傷つきは誰にもわからない

ということだけだ。

その痛みがあなたにはわかるか?

僕も実は、ここ最近までわからなかった。

が、46才で脳出血を体験し1週間の意識不明状態をさまよい、そこから復活して今の小さな法人をつくって、なんとか55才にまでたどり着いた最近、ほんと、やっとであるが、彼女ら彼らの「沈黙の笑みの中の痛み」がわかるようになってきた。

知識としては哲学や精神分析も僕なりに極めたしPTSDもずいぶん前から知っている。が、それとは別に、傷つく人たちが沈黙し時々笑みさえ浮かべマスメディアの華やかな議論からは距離をとる。

その意味がなんとなくわかってきた。その諦めが、やっとつかめてきた。

高校生は傷つきながらも静かに日常を過ごしている。代弁者や批評家、メディアやヘイト主義者たちがそれぞれの立場でそのテーマを語っている時、当事者たちは「沈黙」する。言い換えると、当事者は語れない。

そのことを、あなたは想像できる? それを知っている?