「素朴」で「残酷」な新自由主義者たち~現代の子ども若者支援

■困ることは、サバルタンが生み出されること

新自由主義が支援業界に混入することで僕が困ることは、「サバルタン(G.C.スピヴァク)」が生み出されることだ。

サバルタン/真の当事者は、貧困問題の中にもひきこもり問題のなかにも必ず混入している。現代日本風にいうと「声なき声」の人々といってもいいのだが、これは古くなった左翼言説に辟易する中道~保守的価値観の「普通の人々」も表す言葉であり、サバルタンといっしょにするのはマズイ。

虐待サバイバーにしろ高齢引きこもりにしろ、いまある支援サービスの網ではなかなか救えない人々がいる。しかも、数十万~200万人単位でおそらくそれらは存在する。

スピヴァクが100年以上前のインドを分析するなかで析出したサバルタンの女たちは、夫の死後、固有名を剥奪されたまま代わりに花の名等を与えられ、亡き夫とともに無理心中させられる。

また、おそらく反体制運動の結果自死した10代の女性の死因を、反体制運動の挫折ではなく「恋愛関係のもつれからの自死」というように(若い女性の自死のイメージとして伝播しやすいものに)読み替え、10代のその自死した女性の生前のナマの声を隠蔽する。

名や声を剥奪した社会は、インドの男たちのものであり地方の名士のような上流階層のものであり、何よりも植民者であるイギリス男性のものである。サバルタンを創設し維持することが、自分たちの社会を維持することにもつながる。

■「素朴に」生み出す

現代の日本では、100年以上前のインドのように「戦略的に」サバルタンを生んでいるというよりは、ある意味「無意識的に」「無邪気に」、そして「素朴に」サバルタン/真の当事者を生み出している。

その「素朴さ」は結果として「新自由主義」を選ぶ。

新自由主義といっても難しく考える必要はなく、たえばこのサイト

にあるように、

新自由主義(しんじゆうしゅぎ、英:neoliberalism、ネオリベラリズム)とは、 国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和、市場原理主義の重 視を特徴とする経済思想。

資本移動を自由化するグローバル資本主義は新自由主義を一国のみならず世界まで広げた ものと言ってよい。

出典:日本総研 経営コラム「新自由主義」

と、単純に捉えるだけでいいと思う。つまりは「小さな政府」であり緊縮財政であり、その結果としての民営化と行政の人員削減程度のゆるい意味合いだ。

これを背景として、たとえば日本の子ども若者への支援現場では、決してシステムそのものを変えないが、新自由主義的な発想(緊縮財政と民営化)に基づき、主としてNPOへの各事業の丸投げが目立っている。

一つひとつの事業をここでは細かくあげはしないものの、たとえば100万~200万人単位いるひきこもりの人々のほんの数%しか結果として支援できない支援サービス、各会社の有給休暇システムそのものには手を付けず各社員の自己負担を強いる「病児保育」、学校内に「居場所」を設置したことはいいのだが虐待支援等の知識がない「校内居場所カフェ」、貧困層の多くにニーズがないにもかかわらず学習クーポンをまいたり勉強を教えるサービスを展開する「学習支援」。

これらの事業は、行政の委託事業もあれば大きな財団からの支援金で運営する事業もある。いずれにも共通するのは、若者を中心とした「素人」的組織に委託することで、現代のサバルタンを見落としてしまうことだ。

■「素朴な新自由主義者」

そして、見落としてもそれに気づけない。

「素朴な新自由主義者」たちは、現場とマネジメントサイド関係なく、幅広く存在する。彼女ら彼らは真面目で熱心であり、いずれも「社会を変えたい」「弱者を救いたい」という情熱は持っている。

だが残念ながらサバルタンに届かない。あるいは、サバルタンたちが彼女ら彼ら新自由主義者が醸し出す雰囲気にうんざりして、素朴な新自由主義者たちが気づかないうちに離れていく。

せっかく「アウトリーチ」できたのに、「なにか違う」と当事者たちは直感し、1回~数回の「面接」で離れていく。あるいは、ホームペーやFacebookからあふれるその中流イメージ的なものにげんなりして近づかない。

現場の若い支援者たちは、虐待サバイバーやひきこもりの実態を知らないし想像もできない。知識は当然持っているが、その知識が、目の前にいる若者とすぐに結びつかない。その結果、ピント外れな「上から」トークとなってしまう。また、虐待の実態を発見できない。

これは若者支援者だけではなく、スクールソーシャルワーカーやスクールカウンセラー、キャリアカウンセラー等、最近になって急増する「専門家」たちにも言えることだ(特に「上からトーク」)。正直言って、僕も辟易する。

マネジメント層では、特に40才前後の団塊ジュニアリーダーたちにこの「素朴な新自由主義者たち」は多く存在する。彼らは自分たちの事業が創設された社会問題自体には精通している。

が、現場自体はあまり知らないことから、どうしても紋切り的な提案や理想優先の事業を行なってしまう。

たとえば、警察と児童相談所の完全情報共有や、食糧費は全事業の数%しかない貧困家庭への食料宅配など。その理想はわかる。が、そのまま実践化してしまうと、たとえば「完全情報共有」することで虐待加害親は「引っ越し」を検討して児相サービスの網の目から消える、温かい食事ではなく大手菓子メーカーのお菓子等の保存食が多数占められたりする。

ほかにも、理想が先走り現実のサービスが薄くなる実例はたくさんあるが、個別の事業事例は僕はあまり関心がない。

結果としてこうした残念さが浮き上がる諸事業の根本に、「素朴さ」と「新自由主義」がくっついている点が僕には興味深い。

■単純な人情主義やルサンチマン

素朴さをさらに追っていくと、リーダーたちの中には自分はネオリベラリズム(新自由主義)ではなく、富の再分配である旧来の「リベラル」だと自認する人も少なくはない。

わりと人情主義、単純な弱者救済主義者だと自覚する人も少なくはない。

またそこをさらに深く潜っていくと、団塊ジュニアリーダーたちが抱く「上の世代への反発」、あるいは「親世代である団塊世代への反発」なども透けて見える。

ここにも単純な上世代への「ルサンチマン」があるようだ。

これら、単純な人情主義やルサンチマンも含んだありようを、ここでは「素朴」と表現している。こうした素朴さが、21世紀型新自由主義(20世紀型新自由主義は大掛かりな民営化やリストラだった)とくっついている。結果として行政予算を削減し、社会システムの根本をいじらずキャッチーなコピーで彩られたわかりやすい事業を構築・提案し、そこに「素朴な」支援者を配置し、結果として一部は支援できるものの、決して少なくはない「サバルタン/真の当事者」を生み出す。

素朴な新自由主義者たちを研究すればするほど、そこには悪意や競争主義はないと実感できる。その素朴さが同時にサバルタンを生み出し続けているだけに、「残酷」ではある。