■人は出産マシーンか

親は出産マシーンか、このタイトルには少し矛盾というか順番的にさかさまななところがある。この問いの前にそもそも、

「人が子どもを産むのは社会規範なのか」

という問いのほうが先にある。

言い換えると、「子どもを産む」意思と行為は、「自由に生きる」意思と行為より上位にあるか、ということだ。

つまりは、自由より出産が重要な概念か、ということであり、この「自由か出産か」の選択のほうが、当然「親であること」よりも先にある問題だろう。

だからこの「親は出産マシーンか」の前に、

女は出産マシーンか、

あるいは、出産も含めた子育てを共同で行なうカップルを親である前に「人」だとみなして、

人は出産マシーンか、

と言い換えるほうが順番的には正しい。

■どうしても問いの主語が「親」になる

が、この僕の問いは、たとえばこのような記事(「男性“産休”義務化」少子化問題のカギ?)を読んでいた文脈のなかから思いついた問いであり、こうした記事たちは「少子化対策のため第二子以降をカップルが授かるにはどうすればいいか」という課題が前面になっているため、どうしても問いの主語が「親」になってしまう。

もうすでに第一子がおり親になっている人間たちに対して、どういう政策を打てば第二子以降へのインセンティブとなるか、という発想のもとにこのような記事は成り立つ。

その結果この社会の少子化を防ぎ現在の人口を基準にした経済政策をどうすれば打ち出していけるかという、社会防衛あるいは社会第一主義的発想がその出発点にある。

少子化対策とはそんなものではあるが、この発想は同時に残酷でもある。

「親=人」がすべての前提にある。ということは、親になれない人間は「人」ではないのか、という根本的な問いも同時に生まれる。

また、最初の問いにも戻るのだが、子どもをつくるつくらない、子どもを家族(里子等)として迎える迎えない等の意思と行為は、その意思と結果が結びつくか結びつかないか(ほしいと思っていても授かれない)は結果として置いておき、そもそもは「自由」なはずだ。

それは、社会起業家やマスメディアに提案される領域ではなく、いたって個人の自由の領域のはずである。

■親はマシーンではなくそもそも人間

だから、「親は出産マシーンか」という問いは、親と出産を無条件に結びつけているという点では、社会規範に負けてしまっている。

「自由」を何よりも尊い価値とするのであれば(僕はそう)、親の前に女、親の前に人を持ってくるほうがまだわかりやすかった。

けれども、少子化対策が叫ばれ始め、そしてそんな叫び声のなか21世紀になって20年近くたっているいま、まだ少子化対策は(フランス等の「成功」事例にならって)提案され続けている。

が、現実は子どもは減り続けている。一学年100万人を切ってからもその減少スピードは止まることがない。

この原因は僕は、一カップルの子どもの数というよりは、なによりも、経済的「階級」固定による、アンダークラス/下流層4割の出現だと思う。

問題は「一カップルが子どもを何人つくるか」ではなく、そもそも「カップル化できる人間が少ない」ことなのだ。

だから、カップルになった者たちは、自分たちが子どもをほしいかどうかを根源的に考える自由がまずはある。

そして、子どもがほしいとなったあとでも、結果として授かるかどうかという残酷な事実もそこには待つ。

子どもを授かったら授かったで、その後の子育ての苦闘が待つ。

授からなければ、子がいない生活をいかに肯定し楽しむかという生き方がそこには控える。

当然、カップル化とは遠い人間にも、その人生を肯定しいかに楽しむかという生き方の問題がある。

すべては、自由である。少子化対策のために休みまで権力に規定されるものではない。また、少子化の原因は、経済階層の固定化である。権力と経済という「大きな壁」に、我々のような「卵」の自由は侵食されてはいけない。

親はマシーンではなくそもそも人間で、人間は自由というかけがえのない価値をもっている。