「去った子ども」は語ることができるか~面会交流権と単独/共同親権

■哲学的地平の問題

いつも通りfacebookを見ていると、こんなニュースがタイムラインに流れていた。

面会交流権の法整備を 別居の子と面会求め国提訴

児童虐待の問題がないにもかかわらず、離婚後、我が子との面会が難しい別居親が集団で訴訟を起こしたニュースだ。

ここには「親権」の問題が大きく関与し、単独親権をとる日本では、親権のない別居親は子どもとの面会がなかなか叶わなくなってしまう。児童虐待が日本以上に大きな問題である欧米では、基本的に共同親権だそうで、その個別の応用の仕方はその都度検討されるそうだ。

そもそも、「両親に会う権利」を子どもはもつ。または、別居するが我が子と会う権利を別居親はもつ。

こうした近代的「権利」問題として、この問題を論じることは可能で、児童虐待やDVの被害可能性からの離脱=完全な(住所を知らせない)別居というもう一つの近代的権利とともに、重視される必要がある。

ただこれらの近代的「権利」の地平よりもっと手前の、「当事者は語ることができるか」という哲学的地平の問題が横たわっている。

■「当事者」は子ども

この場合の当事者とは、別居親ではなく(別居親が面会できない苦しさを僕は尊重します)、同居親と日常を過ごすことになった子どものことを指す。この同居は、多くの場合、同居親側の祖父母との同居になることが多いだろう。

この「別居」の日常において、子どもが晒される言語空間に僕は関心がある。その空間は、当然、別居している親に対するネガティブな言葉が飛び交うだろう。また、同居親や祖父母の偏った価値観が一方的に子ども側に注ぎ込まれているかもしれない。

こうした離婚は、多くの場合、子どもが幼児期であることが多く、それは子ども自身がまだ「空っぽ」とまでは言わないが(プリキュアの出産と「ガフの部屋」)、思春期以前で自我形成期途上だということは確かだ。

思春期以前の子どもはゆっくりと言語を獲得しその子なりのスピードでその世界を構築する。笑える話だが、言語とイマージュで構成されたその世界が、「その子の世界」そのものである。

その世界を構成する過程で、同居する大人たちの「言葉」は大きな影響を与える。世界形成の過程そのものに、それら身近な大人の言葉たちが大きなパーツとなっていく。大人たちの言葉がシンプルでラフであれば、シンプルでラフな価値と思想を子どもは身につける。大人たちの価値が、「暴力を伴うしつけは虐待ではない」というものであれば、その価値はそのまま子どもの世界となる。

また、大人たちの価値が仮にものすごく閉鎖的で偏向的で差別的なものであれば、その世界と価値は、真っ白い子どもの上に描かれる。

■「語ることができる」ための大きな燃料

だからこれは、今回の問題を超えて、「育児とは何か」「親が子を所有するとは何か」「虐待の連鎖とは何か」にまで広がっていく大きな問題だ。

ただし、共同親権や面会交流権は、子どもが世界を獲得していくときに最低限必要なものであるともいえる。世界形成の過程で、あるいは「アタッチメント」形成(生命への「信頼」能力)の過程で、「親密な大人」は数十人も不要だが、数名は必要だ(だから施設スタッフが大勢で関わるのは、少数の親密な大人=親よりも効果は低い)。

いまは別居しているかもしれないが、そうした親密な大人の一人である別居親が定期的に面会して、子どもの価値と世界形成に寄与するのは大きな意味がある。数十人の施設職員は、子どものキャパを超えている。また、あまりに濃密でドメスティックな空間(同居親とその祖父母)の放つ言葉と価値は一方的すぎる。

元々、自我形成以前の子どもは「語る」ことが難しい。それは、その言葉自体が価値の形成途中であり、毎日出会う親密な大人に大きく影響されるから。

別居親から見ると、「去った子ども」と語りたい。そして、離れた子からすると、同居親以外の大人(別居親)のもつ言葉と価値が、その子自身が「語ることができる」ための大きな燃料となる。

そうした意味で、「去った子ども」は、別の価値をもつ大人との定期的なコミュニケーションにより、語ることが少しできるようになる。