「カメラを止めるな」は、「家族規範」を止めない

「カメラを止めるな」公式サイトより http://kametome.net/index.html
「カメラを止めるな」公式サイトより http://kametome.net/index.html

■ゾンビ映画ではない

話題の「カメラを止めるな」をやっと見たが、これはゾンビ映画でもカルト映画でも文学作品でもなく、単なる「『家族』エンターテイメント映画」だった。

『家族』エンターテイメント映画とは、ディズニー映画のように家族全員で楽しめるという意味ではなく、「家族」という価値を自明のものとし、その家族内親密さ(いろいろな愛のかたち)を紋切り的に描く作品ということだ。

家族内親密さの紋切り型とは、母と子のよくある葛藤や和解、父と子のよくある闘いや愛情、みたいなもの。

同作品は3パートに分かれ、問題提起としての37分ワンカット「作品」がまずは提起されたあと、その裏話が中盤から後半へと続く。

そこで3流グロ的ゾンビシーンはたくさん流れるが、3流カルト映画ではない。

ゾンビもたくさん出てきて、「地獄のはらわた」な感じではあるが、不快でもない。

大人の男が怒鳴るシーンは不快だが、すぐに第2部となり、同じ男が平身低頭なため、なんとなくどうでもよくなる。

2部(映画の成り立ちの説明)になると、実は怒鳴らない柔和な監督や、エキセントリックな妻、そしてロックンロールな反抗的娘が紹介される。

この家族は紋切り的に成り立ってはおらず、仲が微妙に悪い。いわば普通の「家族問題」映画だ。

このあたりの描写で僕は辟易とした。

■我慢する父、夢破れた母、両親を尊敬しながらも乗り越えようとする子

いろいろあって、最後、父と子は仲直りする。その笑顔で映画は終わるのだが、僕はそこまで見てきて、

「結局、『家族規範』かよ~!」と呻いてしまった。

映画は、才能はあるが認められないカメラマン志望の子ども、いつかは花咲くであろう監督の父親、女優を諦めたもののそのエキセントリックさには誰もがビビる母親が主役である。

ゾンビや血、映画構成上のメタレベルのメタレベルのメタレベル……、は、単なる飾りだ。

物語の芯に、この監督は現代的「家族」の揺れを位置づける。

我慢する父、夢破れた母、両親を尊敬しながらも乗り越えようとする子。そのあり方はあまりに典型的日本の現代家族のあり方そのもので、見ていて共感するものの、そんな共感を抱くためにこの「カメラを止めるな」にお金を払ったのではない、ということを僕は思い出す。

もっと、現代社会を壊すもの、現代社会を支える規範をはじめから鼻で笑うものを、この映画には期待していた。ハチャメチャなゾンビ、ハチャメチャなパンク、ハチャメチャな哲学。「カメラを止めるな」と冒頭から主人公が叫ぶのであれば、うっとおしい社会規範や決めごと(例えば「家族」)をストップしてほしかった。

■「家族規範」は、こうした芸術作品のなかで、ダメ押し的に強固な価値とされる

逆説的ではあるが、我々のもつ紋切り的「家族規範」は、こうした芸術作品のなかで、ダメ押し的に強固な価値とされる。

まわり続けるカメラは、決して「家族」的紋切り価値を壊しはしない。それどころか、ラストの家族間の笑顔の映像を通して、「既成の『家族』価値は良いもの」という規範をさらに強固にする。

おもしろいのは、既成の家族規範を「まぼろし」だと思っている人々が意外に多いにもかかわらず、先進的な芸術作品のなかでさえ、既成「家族」は後押しされプッシュされその意味を強固にする、ということだ。

ラディカルな芸術と思われるもの(『カメラを止めるな』)は、既成価値と対立するように見せながら、既成価値の根本部分を後ろ押しする。