「支援の素人」が支援システムをつくる謎

■「再公営化」と「しょぼい起業」

この10年、いや15年、行政はその「支援システム」の内実を民間(主としてNPO)に投げている。

ここ40年ほど世界を席巻する新自由主義/ネオリベラリズムではあるが、民営化を声高に叫び行動化した前世紀と比べて今世紀に入ってからは、だいぶソフトになってきた。

そのソフト化は、ときに「第3の道/3rd way」とも呼ばれ、イギリスのブレア時代初期にみられたように、ある種の「救い」だとも捉えられたようだ。

が、ブレアは失敗し、第3の道は、いまや21世紀型新自由主義/ネオリベラリズムともみなされ始めている。

欧州を中心に、この頃は「再公営化」が唱えられているようだ(再公営化という選択 世界の民営化の失敗から学ぶ)。

あるいは、この日本では、「しょぼい企業」が唱えられ、その書籍が話題になっている(しょぼい起業で生きていく Kindle版)。

いずれにしろ、日本では慶応大T教授とその「弟子」たちを中心にまだまだ隆盛を極めるネオリベラリズム/新自由主義ではあるが、欧州ではそろそろ陰りが見えている。

■「ゆるやかでやさしいネオリベラリズム」

欧州では陰っているものの、日本では変な感じでネオリベラリズム/新自由主義は生き残っている。

それは、「ソーシャルセクター」として生き残ってる。

それは、PPP/Public Private Partnership/官民連携として生き残ってる。

それは、なによりもNPOとして生き残っている。

つまりは、NPOが担う「社会正義」や「社会貢献」として、ひねくれたかたちのなかで、その正義のなかに潜み隠れている。

本来は弱者切り捨てである新自由主義/ネオリベラリズムが、PPPとして生き残り、それは行政システムのスリム化(財政と人事のスリム化)に直結することから重宝がられる。

NPOの若手スタッフたちは夢をいだき、社会的弱者を支援する活動に邁進する。その邁進行為そのものが、行政システムのスリム化を前進させ、21世紀型新自由主義/ネオリベラリズムを完成化させる。

この「ゆるやかでやさしいネオリベラリズム」は、ここ40年のネオリベ潮流に乗る行政からすると、非常に重宝な存在だ。

そして、そのネオリベNPOのトップたちの大半は、さして意識しないまま自分たちの社会貢献を信じてPPPに走る。

そうして、NPO組織は維持・拡大を図っていく。

■それだけ「素人」なのだ

現在、従来「社会貢献」を担うと位置づけられてきたNPOたちは、その規模をゆっくり拡大させながら、ネオリベラリズムの波の中に浸る。

そして、そのリーダーたちのほとんどは、ネオリベラリズムの最先端に位置づけられていることを意識しないまま日常を送り、その組織の新しい事業をデザインする。

同時に、そのリーダーたちは、支援については「素人」だったりもする。

その新しい事業は、たとえば子ども若者支援であれば、支援の素人らしく、微細な「襞(ひだ)」を観察・分析しないまま、あらっぽい提言へとつながっていく。

たとえば、

1.児童相談所と警察の情報の全件共有

たとえば、

2.貧困支援における脆弱な食料提供

などがある。

1.は、児童虐待発現の最大の原因は「引っ越し」だとも言われ、それは、自分たちの情報を警察にすべて握られることを恐れる加害親たちのメンタルにあるともいわれる。

2.は、とにかく食べ物を、という、若干差別めいた価値が底にあるのかもしれない。当然、食糧支援とは、缶詰やお菓子ではなく、あたたかいお弁当を指すのだが、このへんの心的襞に対して想像性が働かないようだ。

が、リーダーたちは、缶詰が食糧支援だとしてもそこに疑問を抱かない。

それだけ「素人」なのだ。

NPOリーダーたちは、缶詰を貧困支援だとしても疑問を抱かない。が、缶詰はどちらかというと個人の尊厳を傷つける。

NPOリーダーたちは、警察を恐れて引っ越ししていく心性を理解できない。

■リーダーの「暴力」が当事者をしらけさせる

当然、現場ソーシャルワーカーたちは、このへんの微細さに寄り添う。そして、NPOリーダーたちの無頓着ぶり、言い換えると「暴力」にさらされて、いかに当事者たちが傷ついているか、毎日聞かされている。

その傷つきが、どうやらリーダーたちには上がらないようだ。

そして、今日もまた素人リーダーたちは、素人的教条システムをつくり、現場支援者や当事者をしらけさせている。