■ インパクト評価は遠い

休眠預金を選定する組織が決定したようだが(「休眠預金」の分配団体に「経団連」系団体が決定)、年間700億円析出される休眠預金中、30億円ほどが民間の青少年支援等を行なう団体に提供されるようだ。

その30億円を分配するための判断基準として、ソーシャルインパクト評価が重視されるという(数が「ソーシャルインパクト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」)。

この引用記事でも解説したように、インパクト評価の根拠となる「成果指標(若者支援であれば就労に関するわかりやすい支援サービス~面談や実習等~)」と、支援対象者が陥っているひきこもり等の状態とはあまりに遠い。

ひきこもりや虐待サバイバーといった「当事者性」を強く持つものであればあるほど、インパクト評価が重視するわかりやすい支援指標には遠い。

面談にも実習にも、当事者はいつかはたどりつけはするが、それは何年も先だったりする。

だから若者支援でいうと、その代表的機関である「若者サポートステーション」には、当事者性が濃い若者ほど数回の面談で利用を中断してしまう。

成果と数字は、本当の当事者とは相性が悪い。

■哲学的に考察すると

この相性の悪さを哲学的に考察すると、「就労」以前の場所にある人々(ひきこもりや虐待サバイバー)が直面する根源的なコミュニケーションの場所に、「数字」や「カネ」が遠いという問題がある。

長くひきこもっていたり、幼少期に虐待されて他人とのコミュニケーションに難を抱えた当事者たちは、そもそも「コミュニケーションとは何か」という場所に立っている。

言い換えると、他人と交流するための「条件」について、はっきりわからず戸惑っている。

ちなみに、こうした困難さにぶつかることのない多くの人々は、この「他人と交流するための条件」について深く考察することはない。

それは難しく考えずとも自然に体験でき、いつのまにかクリアできてしまうジャンルである。

けれども、ひきこもりや虐待という体験が、その自然なクリアや移行にストップをかける。慎重になる。

他人とはそれほど簡単に出会えるものではない。友達、信頼関係、一生のつきあい、これらにつながる決定的な他人との出会いは、その理由を考え始めると、案外、論理的なものではない。

また、自分を支えてくれる他人(それはペットでもいい)との出会いは必然的なものではなく、すべては偶然からやってくる。かわいい飼い猫、理解のあるきょうだい、常に支えてくれるパートナー、それらの存在たちは、自分が意図して招いたものではない。

それらは気づけばそこにいる。計画的に招いたものでもないし、キャラ選定して自分の人生ゲームに配置したものでもない。いつのまにか自分の周囲に存在し、ある意味消去法的に残っていった存在たちがそれらである。

その消去法も、それらがなぜ残ったのか、それらをなぜ残したのか、多くの場合は明言できないだろう。

明言できず、残ったその理由もよくわからない。つまり、そこには残ることのできた理由、あえていうと「倫理」的必然(ある目的から導き出された理由)がない。

それらが残ったのは、結局は「偶然」なのだ。我々のまわりに配置されたペット、友達、恋人、きょうだい、親(これも消えていく場合もある)は、我々のもつなにかの基準で選別され残っている。

■なぜかペットたちは配置されている

この居残りの理由には基準がない。が、なぜかペットたちは配置されている。

ここに配置基準の倫理はないが、なぜか配置されてしまった(自分のまわりにいる)という倫理はある。「非倫理に基づく倫理」がここにはある。

この、非倫理に基づく倫理は、ある意味「偶然の暴力(選ばれる理由がないがそこに選択の決断が働く)」を伴っている。

選ぶ基準もないのに、それらは選ばれる(ペット、恋人、きょうだい・親)。そこに基準はないが、選ぶという「力」はある。

この「決断の力」は、残酷だ。残酷は、非倫理的ということでもある。この非倫理性、残酷さを受け止め、目の前の飼い猫に臨むことができるか。

目の前の猫を選択したある種の「暴力」を受け止めたうえで、その非倫理性の運命を受け止めたうえで、猫を愛し、野良猫のことも同時に考えることが我々にはできるのだろうか。

我々のコミュニケーションの根源には、このような残酷さが前提とされている。倫理的基準もないのに、我々は他者を選ぶ。この他者の選択が「倫理」ということでもある。

他者選択の根源性の場には、残酷はあるが、基準はない。この身もふたもない事実を、ひきこもりや虐待サバイバー当事者は直感的にわかっている。

だから、「コミュニケーション」に踏み出せない。残酷さへの気づきが、他人との触れ合いに関してためらう。

■倫理的基準もないのに、我々は他者を選ぶ

こうした残酷とためらいの動きへの考察を、「企業化」の動きは蓋をする。蓋をして金銭のやりとりに光を与える。

この蓋をすることと金銭化のとなりに、あの「夜の暴力(デリダ/レヴィナス)」、ほんとうの暴力が位置する。

偶然の残酷さはいつでもどこでも待ち構えており、これを隠蔽する「企業化」は、NPOが主ジャンルとする人間関係のやりとりのフェーズには馴染まない。

企業化NPOのなかから、特に若い人のなかから、そうした金銭化と企業化の暴力に疲れる人々が生まれるのかもしれない。