生徒の高い「経験値」をリスペクトし、支援者たちが10年「ローグワン」していく

■『経験値」と複数のアフターケア

僕は、11/20~22を札幌で過ごし、その間、NPO批評の集い(「劣化する支援12」)、北海道大学での研究会発表(「高校内居場所カフェ」がテーマ)、その高校内居場所カフェを今年全国キャラバンしているフォーラム札幌編、そして札幌の若者支援施設(札幌ユースプラス)での職員研修講演と、4度の講演・フォーラムをこなした。

これは、NPO法人パノラマNPO法人パノラマという高校生支援ソーシャルセクターの石井代表とともに行なったもので、4回すべて我々2人は登壇した。

これに加えて僕は、11/22の夜に大阪は難波において(22の朝札幌で話し午後大阪に戻った)、大阪府立西成高校の存在と意味を考える「西成高校とはなにか」というミニフォーラムを主催した。

これらすべての会で、高校生や若者支援の意味について議論され、そして「若者を長期間支援していくとはどういうことか」という問いが、出ては討議され、別の見方が定義され、それらが折り重なるように人々(登壇者以外に、トータル200名は超えたであろう参加者たち含む)が思考し発言し、毎回似たような結論が現れていた。

それら似たような結論は、一連の流れの中では、11/22夜に開催された最後のイベント「西成高校とはなにか」において明確化された。それは、

「生徒たちの高い『経験値』をリスペクトし、複数の支援者たちが10年以上に渡ってそれぞれの役割のなかでアフターケアしていく」

ということだ。

■「経験値」が違う

ここで言われる生徒たちとは、さまざまな「生きづらさ」に直面しているミドル・ハイティーンたちで、特に経済的下流層、特に貧困コア層といってもいい経済的に困窮する家庭にいる10代たちを指す。

それらの層は、500~1,000万人いると推察でき、いわゆる「7人に1人」の貧困層の子どもたちのことを指している。

当欄でも度々指摘するように、こうした貧困コア層のハイティーンは、「子ども食堂」や『塾クーポン』等の、NPOが現在提供する『貧困支援サービス」は避ける(学習への「絶望」~貧困支援のリアル)。

単に、自分が『貧困」であるということを知られるのが恥ずかしいからだ。当事者であれば当たり前の反応だと僕は思う。

そうした派手なNPOサービスからは遠いが、たとえば学校内で開催される「校内居場所カフェ」であれば、比較的気軽に立ち寄ることができる。

そこには先生ではない大人がコーヒーを入れてくれ、何気ないトークが交わされている。音楽もあまり聞いたことがないがなにかリラックスできる、ボサノバやジャズといわれる曲がかかっている。

時々先生はやってくるが、ふだん教室で見るあのセンセイとは違って、なにやらずいぶんくつろいだ、ふんわりした感じがただよう。その居場所カフェは、教室(セカンドプレイス)ではない、生徒たちにとってまさに「サードプレイス」である。

そうした居場所カフェや、カフェでなくともその話しやすい教師となにげなく交わすトークには、生徒たちが日常さらされている過酷な現実が描かれる。

ステップファミリー化の結果遅れて現れた年少の弟妹たちを保育園に送る、遅くまでアルバイトをしてそのほとんどを親たち(母親の愛人等含む)に「貢ぐ」、荒んだ「夫婦」(事実婚多い)喧嘩が嫌で(面前DVも児童虐待の一つ)、あるいは直接の虐待被害が嫌で家に帰らず友人たち宅を泊まり歩く。それも限界があるため近所の公園で一夜を過ごす。

あげ始めたらキリがない。これらがまさに「サバイバー」の現実だ。

それを「虐待サバイバー」と総称することも多いのだが、これは、社会的「経験値」の高さだと、ポジティブに言い換えることもできる。

過酷な貧困生活や広義の虐待といった支援的側面で事象を捉えつつ、こうした状況をサヴァイブする彼女ら彼らの生き方は、日々その「経験値」をぐいぐい高めているとも言える。

フツーに大学を出てどこかの企業に入る、あるいは学校の教師になった中流層出身の若者よりは、はるかに鍛えられており経験値が高い。

ロールプレイングゲームで言えば、レベル5とレベル30ほどの違いなのだ。

その25違うレベルの高さ、あるいはその過酷な状況を寡黙にしのぎ切るタフさは、本当に尊敬/リスペクトできるものだ。

■バトンタッチというローグワン

11/20~22の一連の集まりにおいて、支援者はどこまで彼女ら彼らの人生に寄り添えばいいか、という点も議論になった。

高校は3年で終わる。児童虐待支援も18才で終わる。が、若者たちの苦闘は実はそこから本格化していく(止まって暗黒になる~PTSDの大人)。

多くの教師は、3年単位で生徒を捉える。中学や高校教師のそれはサガであり仕方がないかもしれない。

けれども、たとえば西成高校の教師たちは、もっと長いスパンで生徒の「人生」を捉える必要があると考えているようだ。

あるいは、若者たちのPTSD等の苦しさは、夜も昼も当事者たちを襲う。襲われた時、誰かを頼りたい。だから支援者に電話したりラインする。それがどんなに夜中であっても、その「頼る声」に応えるべきかどうか悩む若い支援者たちが存在する(たとえば札幌ユースプラス)。

3年の壁、24時間対応の難しさ、これは全国の支援者/教師たちに共通する悩みだろう。

今回の札幌や大阪でも、問いを発する人の顔は違うが、その中身はよく似た悩みが3日間で共有された。

そんな時、僕や石井さんが発した言葉は、「バトンタッチ」していくことの重要性だ。

一人の支援者や教師が、一人の若者の3年間やその後(アフターケア)の10年間を背負うことは難しい。

けれども、それら支援者や教師が複数になり束になりロープになって、それぞれができる範囲でかかわり支援し、それぞれが「バトンタッチ」しつつ10年単位で寄り添う。

まるで、ひとつの設計図をさまざまな人々がバトンタッチして目的地へ届けたあの映画「ローグワン」のように、その重要な仕事はとても一人ではできないが、時間と場所を交代しつつ複数で届けていく。

それとよく似たさまを、当欄では高校内居場所カフェ「となりカフェ」を例に以前描いた(「つなぐという意思」~ローグワンと居場所カフェ)。あれは居場所カフェをいかに続けるかという話だったが、ここでは「無理のないアフターケア」もこれと似ているとしている。

この子・この生徒・この若者を支えるという集合意思が偶然の積み重なりで続き、若者が大人になっていくことを支える。

その動態自体が、「アフターケア」だと僕は思う。

北海道大学での研究会チラシ
北海道大学での研究会チラシ
高校内居場所カフェサミット全国ツアー@札幌チラシ
高校内居場所カフェサミット全国ツアー@札幌チラシ
「西成高校とはなにか」チラシ
「西成高校とはなにか」チラシ