■結果として「新自由主義」

寄付を呼びかける記事や本は絶えることがない。

その一つひとつを検証することはできないが、大規模NPOたちは今日も無邪気に寄付を呼びかける。

NPOというだけで、寄付が集まる、あるいは経営的に不安定でかつ「社会貢献」しているNPOだからこそ、堂々と寄付を呼びかけても問題ない、と多くの「呼びかけ」は確信しているようだ。

が、寄付先のNPOが行なっている事業の多くは、結果として「新自由主義」的内容だったりする。

それは、コア当事者を切り捨て、行政の財政を中心としたスリム化を狙っている(「死」を知らないニッチNPOが主流になった悲劇)。安く民間を使い、できるだけ「小さな政府」にする。まさに「新自由主義」だ。

80年代を中心としてブーム化した第一期新自由主義は、国鉄や電電公社がJRやNTTに衣替えしたように、「民営化」がその中心だった。

が、ゼロ年代以降は、PPP(パブリック・プライベート・パートナーシップ:公民連携)に象徴されるように、ソフィスティケイテッドされた。

ここには、行政がNPOに委託する多くの行政事業などが含まれる。

ひとつの委託事業が800万円の事業だったとして、ここに行政パーソン2人あるいは1.5人分の人件費を支払い遅々とした事業を行うよりは、NPOに委託してNPOの3人分の人件費の範囲内で民間らしいエネルギッシュな提案を現実化してもらうほうが、行政・NPO・市民すべてがウィンウィンになる。

80年代は国鉄民営化により多くの「涙」が流れたが、ゼロ年代以降のPPPは、関係者(かっこよくそれはステークホルダーなどと呼ばれたりする)全員がまあまあの幸福に包まれるという点で、新自由主義は新たなフェイズに入っている。

■そのソーシャルワークは、「行政」の仕事

その21世紀型新自由主義的内容(公民連携/PPP)は今世紀の流行であり、それを一部下支えする寄付財源(や税免除)も、広い意味でPPPの一部だと思う。

これらを、寄付の呼びかけ者(中間支援NPOが中心)も受け入れ者(現場を担当するNPO)も明言しない。

これが現代の病理だと僕は思う。

「土台」は、PPP的新しい新自由主義に乗り、事業の実態はコア当事者を捨象し、行政予算のスリム化に寄与している。

が、そうした「弱者切り捨て+小さな政府」化に加担していることは明言せず、自分たちが行なっている事業は「よいこと」と単純に提示し、そこに行政予算的配分がないからみなさん寄付してくださいと、有力NPOはシンプルに無邪気に訴える。

だが、たとえば貧困支援であれば、子ども食堂や塾クーポンは一部の当事者しか利用しない。

貧困コア層は、NPOが提示するPPP委託事業のほとんどを忌避する(だから、僕がこだわって展開する「高校内居場所カフェ」は、当事者たちが忌避できないよう高校内に設置する校内居場所カフェサミット in 札幌)。

子ども食堂や塾クーポンといったある種の「裏ワザ」では、貧困コア層には届かない。その層には、オーソドックスに、「ソーシャルワーク」するしかない。

そしてそのソーシャルワークは、「行政」の仕事なのだ。

■「休眠預金」もすべて、児童相談所の新規職員増に回せばいい

つまり、コア層は伝統的な「行政」が把握するしかない。

「行政」からはなかなか逃げられないし(だから警察と児相の情報全件共有を義務化してしまうと逆に「引っ越し/逃走」が増加する)、生活保護等の生命線を行政が握っているため、コア層たちは時々行政と向き合うしかない。

僕の結論は、寄付先を行政とし、その金で児童相談所の職員を雇うことだ。

官僚的な行政パーソンを増やすだけという批判もあるだろうが、コア層に流れない今のカネの動き(それはソーシャルインパクト評価を背景とした「休眠預金」財源でも同じだろう)を見ていると(数が「ソーシャルインパクト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」)、対象の絞り込みとしては行政への寄付のほうが少しだけ効率的だと思う。

また、「休眠預金」もすべて、児童相談所の新規職員増に回せばいいと思う(「休眠預金」開始!~わかりやすい問題に「カネ」は集まり、真のマイノリティ問題が捨てられる)。

宣伝上手なNPOにナイーブでいよう。また、宣伝ベタな行政にはこちらからアタッチメントしよう。