「タケシ」に殴られたことがない専門家

■「親の絶望」

貧困支援のなかの学習支援はある程度効果をあげてはいるが、貧困コア層の若者への訴求力は弱い。それは、コア層の若者たちが勉強に「絶望」しているからだと前回僕は書いたのだが(学習への「絶望」~貧困支援のリアル)、その絶望のさらなる源泉として、「親の絶望」は大きな原因としてあるだろう。

絶望というというよりは諦め、あるいは恐怖(勉強への!)といったほうが近いのかもしれない。その親自身、虐待の連鎖に巻き込まれ「第4の発達障害」(杉山登志郎医師)であることも多いから、意味づけや言語化に極端に弱い。

児童虐待の多くはネグレクト(育児放棄)や心理的虐待(ことばの暴力や面前DV)といわれ、それらをベースに身体的虐待は発動しているだろう。ただ性的虐待については僕はまだまだ勉強中で、児童虐待の極北にそれが位置するのか、見えない性犯罪の「基本」としてそれは一犯罪者の行為の出発点としてあるのか、まだわからない。

ただ、後者(性犯罪の「出発点」としてそれはある)のほうに実は源泉があり、虐待の4要素のひとつとしての性虐待は、近いうちに見直されるのでは、と僕は読んでいる。

■サイコキラー

性虐待についてはだから別に詳述するとして、ここでは、学習支援を行なっても届かない貧困コア層が生み出される児童虐待について、その「暴力の発生」という視点から考えてみる。

児童虐待のノンフィクションなどを読んでいると凄惨な事例が次々とあげられ、それはとても「しつけの延長」とは思えない。僕だけではなく、そうしたノンフィクションの読者の感想を多く聞く。

それらの加害者は、確実な意図をもって実行に及び、そこには「しつけ」的感情は介入していない。あるいは「憎しみ」的感情も介在しておらず、もっと機械的で「感情外」な欲動のようなものにその暴力は満たされているという。

それを精神医学では、「反社会性人格障害 Antisocial Personality Disorder」などと名付け、フィクションの世界ではサイコキラーなどと呼ぶ。

それはある意味わかりやすい。病、あるいは脳の内部の仕組みがそのような結果を招いており、その「発生」や「源泉」について考察しても仕方がないという立場だ。

■生活の中の習慣から生じるハプニング

凄惨な事件にまで到達する場合、そうした議論には説得力があり、僕は否定しない。

だが現実には、虐待がエスカレートするとき、反社会性人格障害者の行為のように最初から最悪の事態を狙って行なうものではないケースが大半だと僕は思っている。

加害者本人としては暴力ではなくしつけ、ちょっとした感情の発露、自分も親から受けた嫌ではあったが許容範囲ではある荒っぽい行為、そうした行為たちは暴力や虐待というよりは、生活の中の習慣から生じるハプニングのようなものだと、加害者は捉えているように僕は感じている。

哲学者デリダのいう「夜の暴力」(「暴力と形而上学」「法の力」ほか)的リアルな暴力は、加害者にとって決して明確な力の行使ではなく、それは明らかな「昼間」ではないものの夜でもない、夕方の、あの「逢魔が刻」(大島弓子「たそがれは逢魔の時間」)に生じる魔がさした行為のようなものだと、加害者側は考えていると僕は推察する。

僕の関心は、その逢魔が刻の一瞬の乱れが、我々の近代社会のメインストリームでは「暴力」と呼ばれ激しく排除されるが、そのメインストリームに属さない人々(その代表が経済的下流層の中の貧困コア層500万人強)は本音では暴力なんてちっとも思っていないことだ。

それはついつい魔が差した行為、だが酔っ払っていてついつい出血にまで至った行為。血は出ているものの、それは「そんなもの」であり、自分も大人たちから無数の刻印を刻まれてきた。

そしてそうした力の行使は、自分の周囲には(映像作品を含めて)無数に存在する。タケシの殴り方のほうが、自分より格段にエグい。

■タケシのエグいゲンコツは知らないが

児童虐待を支援し判断する福祉や法の専門家の多くは、おそらくタケシに殴られたことがない。虐待を研究するアカデミズムな人々もそうだろう。もっというと、映画評論家の方々でさえ、タケシに殴られたことがないと思う。

そういうことなのだ。虐待や犯罪を裁いたり判断する人は、タケシに殴られたことがない。また、虐待を文芸作品に仕上げる人々も、エグいタケシのゲンコツを知らない人が多いだろう。

そうした人々が、虐待を定義付け、法律をつくる。

まあ僕もタケシのエグいゲンコツは知らないが、少年時代は結構たたかれていた。