「涙」と「物語」で評価しよう~アンチ・ソーシャルインパクト評価

■ひきこもりと別の人間になれるわけではなく

ソーシャルインパクト評価とは、成果指標主義であり、当欄でも真の当事者が覆い隠されるとして批評的に論評した(数が「ソーシャルインパクト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」)。

そこでも書いたとおり、支援なんて結局は偶然の人間たちの出会いで成り立ち、10数年単位で変容していく当事者のあり方を見つめ寄り添うものだ。

僕も何人ものひきこもり当事者の10年を見つめており、彼ら彼女らはそれぞれのペースで、徐々にではあるが変容していく。

ソーシャルインパクト評価が求めるような短期間の変容は、長い人生の中ではたいしたことではない。また、アウトカムやアウトプットとして表現されるそれなりの数字であったり変容も、10数年単位の変容と比較するとたいした変容ではない。

変容というか、長い期間ひきこもってきた人間が突然ひきこもりとは別の人間になれるわけではなく、また、虐待サバイバーとしてサバイブしてきた人間が突然PTSDの襲来をかわせるようになるわけではなく、彼女ら彼らは、相変わらず「高齢こひきこもり」や「虐待サバイバー」として過ごす。

それは、40代になっても同じだ。

■ジギー・スターダストからベルリンの壁の人へ

1~2年単位では、人の変容は評価できない。

評価というか、クリティークできない。人の寿命90年を通して、人の変容は語ることができる。

あの、変容することがウリだったロックミュージャンのデビッド・ボウイだって、スペースオデッティ~ジギー・スターダストからロウ、そしてレッツダンスからその次への変容を、いまだに全体的には把握できない。

ボウイが、ジギー・スターダストからベルリンの壁の人(ロウやヒーローズ)へと変容したことのポジティビティは、これからも何十年かけて語られることだろう。

まあボウイのことはさておき、人の変容なんて、つまりは「就労」や「就学」ではない。

就労数や就労に向けての面談数、また、それらを通して「働くことにポジティブになること」や「就労モチベーションを形成すること」、また学校に行った子どもたちの数や、学校に行くことで教育の意味を知ること、などは本当にたいしたことではない。

■乳幼児が流す「なみだ」は、また、異常に「球体」でもある

今の人間がだいたい90才で死ぬとして、働くことができるのは、せいぜいその間の40年間ほどだ。

その40年にしても、フルで働くひとは、病気等の原因からそれほど多くはないだろう。「仕事」は実は、人生の断片にすぎない。だからそれを「評価」の中心にもってくる人々やシステムは、それなりの理由がある。

その理由とは、新自由主義だったり、行革だったり(あ、同じか)、経費削減だったり(あ、これも同じか)、現役世代の中心たちがここ数十年の経済学的流行(新自由主義)を用いて応用する理由だ。

人がそれなりに社会に適応してそれなりに立派に生きることは、たぶん就労するとか就学することではない。そして、それらの数を競うことでもないし、就労・就学にともなって変容した意識のあり方を披露することでもない。

もっと重要なことが、我々の人生にはある。

そしてそれらは、すでに日常的に人々は共有していたりする。

それはたとえば、ヒトがもっている「感情」の具体的表象である「なみだ」だったりする。

泣くこと、涙を流すこと。その重要性を我々はすぐに忘れてしまうが、ヒトがこの世に生まれてきてまずやることは「泣くこと」、産声を発することでもある。

自分はこの世に現れた、そして、へその緒を通してではなく、こうして泣くことで自分の肺で息をする。そのことを知ってほしい。

乳幼児が流す「なみだ」は、また、異常に「球体」でもある。ポロッポロッとそれはこぼれ出てくる。その球体に、周囲の景色が丸く映し出され、小さくて丸い立体的な「透明球」が我々の汚れた社会を映し出す。

■こんなこと(なみだと物語)、我々は日常的に行なっている

乳幼児だけではなく、我々は90年の人生のなかで、いくらでも泣く機会がある。

赤ちゃんや幼児の時期はすぐにすぎる。が、思わず涙が出てしまう人生のシーンはいくらでもある。

その時、あなたは泣けるか?

その時、泣けることはスゴイ。「評価」はそこに標的を合わせる。

また、人生の苦闘を「物語」で語ってしまうことは、我々の生活の中では普通だ。飲み屋のオヤジのトークだけではなく、たくさんの苦労話を、「ストーリー」として語ってしまう。

そのストーリーに入り込むこと、物語の一人物に収まってしまうこと、そうすることで、我々は我々の人生を「ライフストーリー」としてまとめていく。

そのまとまり方が、我々の90年の人生の意味となる。

こんなこと(なみだと物語)、我々は日常的に行なっている。なみだ=感情のほとばしり、人生の物語=生きる意味の問いなおしを。我々は常に行なっている。

そこに「評価」があるとすれば、そうした問い直しの言葉を聴いてみたい。それらの言葉は、ソーシャルインパクト評価をはるかに上回るだろう。

そう考えると、様々な数値や短期的変容を評価基準とするソーシャルインパクト評価が中心になることはありえない。