数が「ソーシャルインパクト」か?~支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」

■いつからだろう

僕は、ひきこもり/ニート・不登校の支援をしてはや25年になる。

が、いつからだろう、「支援の成果」として、たとえばひきこもり/ニートであれば、就労や就労実習に至った数や、そこまでは至らなくとも就労に至るまでのモチベーションが形成されたか否かという、ある種の成果指標が、支援の意味あるいは支援の実績として評価されてきたように感じていた。

それはそうだろう、若者の(あるいは不登校の)支援をするための予算の大元は税金にさかのぼる。その血税をつかってまで行なう支援については、「目に見える」成果を出して報告する必要がある。

だから、たとえば地域若者サポートステーションや各自治体で行われる若者への就労支援事業に関して、その事業内で「いかに就労へのモチベーションが形成されたか」「何人の若者が就労に向かうためのセミナーを受講できたか」「何人がアルバイトできたか」という、目に見える数字としての成果を厚労省が、あるいは行政が求めることは仕方ないと思ってきた。

が、そうした成果指標至上主義、「数字」絶対主義は、どうやらさらにウラの論理があるようだと気づいたのは、ここ1年のことだ。

■「行政」の台所と組織事情

たとえば「就労」に関して、一人でも多くの若者が就労(正社員化)することで、年金や健康保険の社会的コストが軽減されて財政は楽になる。という視点を持つのは、あくまでもそのコストを「コスト」として捉えざるをえない、行政の視点だ。

また、そのための支援を民間に委託して行政本体の人件費を節約して楽になるのは、これまた行政自身の視点だ。

このような視点、財政と人件費のコスト削減が、若者への「支援の成果」を求める立場にも含まれているらしい。

どうやら、子ども若者支援への「数」を求める姿勢は、目の前で困っている当事者たちへの支援も当然含まれるが、そのウラには、支援するお金を拠出するこの場合「行政」の台所と組織事情が大いに関係しているようだ。

そして、行政の財政と人件費の節約とは、そういえばよく考えると、「新自由主義」として括られるものではないか。

と僕が気づいたのもつい1年前。

30年も昔の大学経済学部時代、おもしろ半分に受けていたケインズ経済学とその反対のフリードマン等の新自由主義経済学を、久しぶりに思い出したのであった。

劣等生の僕は詳細までは忘れてしまったけれども、フリードマンが小さな政府を提唱し、その結果としてアメリカでレーガノミクスが現れたのは鮮やかに覚えている。その流れから、日本にもバブル崩壊以降に輸入され現実化されている。

■現場は、数字をひねり出す

それら新自由主義経済学は、とにかく「小さな政府」を目指し、行政の予算の節減を標榜し、結果としてケインズ主義とは反対の、多くを民間に任せる「自由」を標榜したはずだ。

だからそれは、「支援」とは関係ないはずだ。

また、「休眠預金」的な眠れる莫大なおカネを合理的にやりくりする政策や、「ふるさと納税」のような地方創生に役立つリベラルっぽい視点や、そして、若者の就労支援のようないかにも福祉的な政策とも関係ないはずだ。

だが、行政の財政の有効利用と人件費削減という視点でくくる時、それらは新自由主義の実践形として示すことが可能のようだ(「休眠預金」の運用めぐり、NPOが緊急集会)。

悲惨なのは、「数の成果」を求められそれを日々提出するために自らの日々の実践を「数値化」することに頭を捻る、現場の若手スタッフたちだ。

現場は、とにかく目の前の当事者をなんとかしたいために、それらの数字たちをひねり出している。

■「ソーシャルインパクト」は偶然の要素が強い

だが現実の若者支援は、そうした「数字」にはなかなか現れない。

ひきこもりの若者の「社会参加」は10年単位の時間がかかり、多くは複数の支援機関をまたいでいく。

それら複数の支援期間は、新自由主義的「ソーシャルインパクト評価」が求めるような「ステークホルダー」たちにまとめられることはなく、ひきこもったりボランティアしたりぶらぶらするなかで頼っていった複数の支援機関が担う。

それら複数の支援期間は、ソーシャルインパクト評価が設定しているようなネットワーク組織には収まらず、その組織の外側にあるボランティア団体が担ったりする。

ひきこもりの若者にとって、10年単位で出会い、結果として社会参加に役立った各組織は、最初から社会が「インパクト」を出すために用意していたものではない。

それらの組織体との出会いは、あくまで偶然だ。

10年単位の時間の流れのなかで、たまたま出会い、たまたま優しくしてもらい、たまたまその意気に応じてもいいかな、と思ってしまった。

すべては「偶然の出会い」の結果なのだ。

僕が見ている限り、「ソーシャルインパクト」と呼ばれるようなある種の「結果」は、かなり偶然の要素が強いものだ。

「まさかあの『ひきこもり10年』の若者が、こんなかたちで『自立』することになるなんて」と、実際に「結果」を導いた要素は、コア当事者(ここでの事例ではひきこもり)になればなるほど「数値化」は難しい。

支援なんて、結局は「偶然の他者との出会い」、人が変わる契機なんて、そんなものだろう?

だから、ソーシャルインパクト評価、あるいは数字の絶対主義は、支援の本質、人間が偶然の他者との出会いによって徐々に変わっていくそのおもしろさを隠蔽してしまう。

そんな、「人間が変わることのおもしろさ」を、現在の成果求道主義のこの社会は押しつぶす。