ことばの苦しさ~児童虐待死が迫ってくる

テレビスタジオは独特の切迫感があり、油断すると紋切り口調になるため当日は集中した

■アベマプライム

昨日(6/7) 、アベマテレビのアベマプライム(AbemaPrime | AbemaTV)というネット番組に僕は出演した。例の、虐待する親に対して懇願する手紙を残しながら亡くなった5才児の事件に関して(東京・目黒の5歳虐待死 食事与えず 遺棄致死容疑で両親逮捕)、検証する内容だった。

その番組の担当者が、当欄(この僕のYahoo!ニュース個人記事です)を定期的にチェックされていて、僕にお声がかかったとのことだった。ありがたいことだ。

これまで僕は、東京のTV番組から数件出演のご依頼を受けたことがあった。が、いずれも急な出演依頼だったのと、その内容にピンとくるものがなかったため、お断りしてきた。

が、今回は、なぜか僕の直感=ゴーストが囁いた。

これは受けてもいい話だぞ、と。

児童虐待、そしてその結果訪れた死。また、今回の被害者が残した切々とした手紙=ことば。

5才児のことばは、基本的に親や大人の模倣だという理屈は知っていても、やはりそのナマの言葉を見せつけられると胸が苦しくなる。

それは多くの方々の気持ちを揺さぶったようで、ネットにもたくさんの思いが綴られていた。

■「サバルタンは語ることができるか」

僕の人生のテーマは、「サバルタンは語ることができるか」というものだ。

これは、G.C.スピヴァクの名著(みすず書房)のタイトルで、インドの最下層(サバルタン)に属する女性たちが、夫の死に際して無理心中させられる事象について、スピヴァクが怒りの筆をたたきつけた本だ。難解ではあるが傑作である。

そこでスピヴァクは、そうした無理心中事件や、恋愛のもつれと解釈されつつ実は政治運動に絶望して死んだらしいサバルタンの女の経緯をたどり、「本当の『当事者』は、その思いを語ることができるのだろうか」という問いを投げかけている。

社会構造が生み出してしまう最もマイナーな存在、当時のインドであればサバルタン階層の妻たち娘たちの「本当の声」は、どうしたらすくい上げることができるか、どうすれば表象=ルプレザンタシオンできるか、という点に絞って、これでもかというほど論考を重ねる。

社会構造が生み出す最もマイナーな存在=当事者は語ることができるか。

スピヴァクはその当事者を「サバルタン」と呼び、サバルタンは語ることができるか、と問いかける。

■「ひらがな」

もちろん語ることはできない。

その絶望感が、スピヴァクの問いを普遍的にしている。

今日の日本であれば、虐待事件を生み出すドメスティックな家庭内に、それらサバルタンの女たち娘たちはいる。そしてそれは通常、名を持たないまま、受けた激烈な被害すら状況もはっきりしないまま死んでいく。

が、今回の事件では皮肉にも、朝4時からたたきおこされて学ばされたという「ひらがな」というエクリチュールによって記録された。

上にふれたように、5才児の言葉は、親や大人の模倣であることが多い。またそれは、親や大人の期待に沿いたいという言葉でもある。

そんな冷めた視線はそれら言葉たちによって吹き飛ばされてしまった。

それだけのエネルギーを亡くなった子どもの言葉は持ち、昨日の出演者たちにもそのエネルギーが乗り移ったかのごとく、彼女ら彼らはよくしゃべっていた。

そして僕もできるかぎりの力でしゃべった。

■「残してくれた言葉たち」

出演後、ホテルに帰ってきてゆっくりしたらやっと身体がリラックスし始め、その日の番組を僕は振り返ることができた。

番組自体には、やはり「テレビの魔力」というものを感じた。誰が悪いのでもないのだが、なにか集中しない。その雰囲気に取り込まれないよう、またトリッキーにもならないよう気合を込めた40分だったが、その結果、久しぶりに僕はものすごく疲れた。

児童虐待に関する啓発の弱さも痛感した。

それは、

1.事象の悲惨さ、

2.「当事者が語れない」こと、

3.経済階層の格差からくるリアリティのなさ(しつけ=怒鳴る・たたくの意味がわからないミドルクラスの弱さ)

等の原因はある。

だが、今回の事件で「残してくれた言葉たち」に応答するためにも、我々は児童虐待のリアリティーについてさらに言及していく必要がある。その言葉が虐待の結果生じたのだとしても、通常は世に出ないサバルタンたちの思いが、皮肉にも加害者の行ない(早朝4時からの特訓)によって顕在化することになった。

サバルタンは、抑圧のなかで逆説的に語ることができる。