当事者の悩みをどう「発見」するか

虹=自由

■当事者の覚悟は、当事者だけが知っている

「潜在性」あるいはコア当事者ということをさかんに僕は言っていて、人々はその存在は想像できるものの、その実態はなかなかイメージできないようだ。

が、潜在的当事者、コア当事者は何気ないかたちで我々自身と我々の「となり」にひっそりと存在している。

それはたとえば、東日本大震災を振り返るこのエッセイ(http://kainishii.hatenablog.com/entry/2018/06/01/120111)などにも伺える。

ボランティア体験で出会った当事者たちが、何気ない言葉を発する。その言葉はどうやらそれら馴染みのボランティアだからこそ発せられているようだが、ボランティア自身は数年後になってようやくそれらの言葉の重みを実感し始める。

震災の被災者、それら当事者にとって、現在進行形の苦しみは誰にも言えない。

それは、「この人だったら大丈夫かな」と思える支援者にだけ、ひっそりと告げられる。そして、告げられるほうはまだ若く、告げられることの重要性に気づけない。

当事者の覚悟は、当事者だけが知っており、告げられる支援者はその意味合いをなかなか認識できない。

■悩む我々自身も、我々の悩みを知っている

当事者の覚悟とはそんなもの。その苦しみの言葉はじぶんにだけ表象され、時々心を許した人々に発せられる。だがその表象はたいてい空振りに終わり、当事者の覚悟は空中に消え去る。

が、虚しくはない。言葉は、「他者」のなかに吸い込まれている。あなたの悩みの言葉は、周辺の人々や自然や動物たちが聞いている。となりの「他者」たちは、我々の悩みを知っている。

もちろん、悩む我々自身も、我々の悩みを知っている。

そんなふうにして、当事者の言葉たちは吸い込まれる。自然に、空気に、何気ない雑談に、不真面目なコミュニケーションのなかに。我々のコアな言葉は、そんなふうにしていつも流されてしまう。

それをあなたは気づけるか。

僕はなかなか無理だなあ。難しい。

けれども、悩みのコアはそぐそこにあり、多くは自分自身だ。また、最も近い人々に悩みは漏らされている。コア当事者は、コアな悩みを直球で誰も語らない。雑談の中で、ユーモアの中で、それは表象される。

そしてコア当事者(本当の当事者=サバルタン)は、その瞬間に、やっと当事者らしい表情を見せる。

あなたに見せるのだ。

■そのシェアの姿にあなたは気づけるか

そんな当事者たちの悩みの「コア」はそんな当事者たちの中にある。じぶん自身のなかにある。

あるいは、不意なかたちで我々にシェアされる。

そのシェアの姿にあなたは気づけるか。

あるいは、あなた自身がふっと表象してしまうそのマイナーな悩みを、あなたの周辺は受けとめることができているだろうか。

僕自身は、それらを実践できるようになるには、50年かかった(いま僕は54才)。だいぶ時間がかかったけれども、なんとかできるようになった。だからみなさんもそんなふうにしたらいいんじゃないかなあ。