中流層の感受性の鈍さは貧困層には暴力そのもの~「劣化する支援@東京」

「劣化する支援@東京」発言者のNPOパノラマ代表・石井正宏さん(左)と僕

■「劣化する支援5@東京」

4月28日に、東京・飯田端にて「劣化する支援5@東京」という集まりを開き、NPO等「ソーシャルセクター」で仕事をする人々が40名も集まって、現在我が国で展開される「社会貢献」「ソーシャルビジネス」等について話し合った。

これは「5」がついているだけあって、これまで、大阪・静岡・京都・松江で開催してきた。毎回定員を上回るソーシャルセクター界隈の人々が集まって議論を交わしている。

この取組を通して感じることは、これまでNPOを中心とする「ソーシャル」界隈には、このようなメタレベルな批評行為はあまりなかったのだなあということだ。

もちろん、NPOたちは孤立しているわけではない。それらは、「つながり」という言葉に象徴されるように、いくつかの団体が組んで貧困支援等の事業を展開している。

が、実はそうした「つながり」はオープンなようでオープンではなく、気の合う代表同士がそれぞれの思惑をもって組んでいる。

その事自体はたいへん良いことではあるが、その「つながり」が形成されることで、皮肉なことにつながりの外との間に強力な壁が形成され、つながりというタコツボのなかで閉じていくことになる。

共同事業体を形成する時に避けられない皮肉(オープンを目指して外に開くものの繋がった瞬間それは閉じてタコツボ化する)なのだが、その皮肉をソーシャルな人々はある意味無意識的に行なう。

その無意識的タコツボつながりが、外から観察していると、微妙にノブレスで「選ばれた」感じのエリート組織体になってしまう。

■「つながり」の結果の優越性

そうしたつながりの矛盾のようなものを「批評」するのも、「劣化する支援」イベントのひとつの役割だ。ソーシャルセクターには「中間支援」という業務も含まれ、現在それは資金調達等のアドバイスなどで行なわれている。

が、メタレベルからの「つながり」の批評なども、それが一般性をもち批評行為がさらなる上質なサービス創造の可能性をもつのならば、中間支援の1つになると僕は思う。

だから「劣化する支援」のサプタイトルは、「批評の中間支援」としている。

「つながり」の結果の優越性は、現在多くのソーシャルセクターの人々が属するであろう「中流階層~ミドルクラス」の優越性を結果として証明してしまう。

現在、NPO等のソーシャルセクターでやっと「食べて」いけるようになったものの、多くはまだまだ収入は低いままだろう(もちろん僕も)。

ただ、大学生にはソーシャルセクターは有力な就職先の1つでもあるようだ。「一流企業」とはオーダーは異なるものの、就職に向かうモチベーションとしては同量程度のエネルギーを、学生たちはソーシャルセクターに注いでいるという(一流企業に行けないルサンチマンといういじわるな見方もあるが)。

そうしたソーシャルセクター志望の学生たちも、もちろんミドルクラス出身だ。階層の連鎖が着実に進む日本では、なかなか下流層から中流層には上がれない。

言い換えると、中流層の人々は、親から子へ「学歴」や「文化」を伝えていく。フランスの社会学者P.ブルデューが指摘した通りの事態が我が国でも進行している。

ミドルクラスの子どもたちは親と同じような文化知識を得、親と同じように大学を出、親と同じようにそれなりの仕事につく。

その仕事に現在は「ソーシャルセクター」が含まれている。災害支援や貧困支援といった社会貢献は、「特定非営利活動法人5万時代」においてはそれほど珍しいものではなくなった。

そこに、ミドルクラスの若者たちが向かっている。

■暴力そのもの

けれども、当欄で以前指摘したように、災害は平等に人々を襲うが、貧困は不平等に人々にのしかかる(貧困と虐待は「平等な不幸」ではない)。

階層化かが完成しつつある(「階級社会」になりつつある)我が国では、経済的下流階層の人々は下流階層のままであり続ける。

下流層の大人、若者、子どもは、ずっと下流層のままである。

そしてそこでは、「弱いものがさらに弱いものをたたく」(ブルーハーツ「トレイントレイン」)といった事態が日々起こっている。

その人間的弱さを僕は責めることはできないし、その弱さそのものが「人間的」だと感じることもある。

そして、僕が当欄で時々「貧困コア層」と呼ぶ人々は(「貧困コア層」は存在するのか)、「人間的」な日常を送りながら、上のソーシャルセクターに属するようなミドルクラスの若者たちとは絶対的に距離を置く。

自分たちとソーシャルセクター若手社員たちは、完ぺきに住む世界が違う。

その断絶感はルサンチマンのようなひねくれた近接性ではなく、絶対的な断絶だ。関わること自体を拒否する。喧嘩して拒否するといったものではなく、そもそも近寄らない。絶対的に距離を置く。

その理由はひとつ、自分たちのことを伝えても、ミドルクラスの人々には絶対的にわからないと身をもって知っているからだ。ミドルクラスの人々の言うような、

「努力すればいつかは報われる、いつかはつながれる。学習支援も受けていくと、いつかはそれなりの幸せが訪れる」

といった無邪気で明るい言葉は、アンダークラスの若者を傷つける。

なぜなら、絶対そのようなこと(ミドルクラスの人々がいうようなミドルクラス的幸せ)は訪れないからだ。もちろん、下流には下流なりの幸せがあり、一瞬の微笑みは毎日訪れる。けれどもその幸せや笑みは、決してミドルクラスのソーシャルな若者たちが無邪気に描くことのできる笑みではない。

それは、虐待サバイバーの笑みであり、相対的貧困のなかでの笑みなのだ。常にどこかで負い目や物足りなさや怒りや諦めを抱く(思春期的痛みではない)諦めの中の笑みだ。

こうした諦めが絶対に伝わらないミドルクラスの人々には完ぺきに心を閉ざす。つまり、ミドルクラスの人々はこうした諦めが想像できない感受性の鈍さがある。

その中流層の感受性の鈍さは、貧困層には、

「暴力」、

そのものである。