貧困と虐待は「平等な不幸」ではない

チョコトーストとバタートースト。高校内居場所カフェで

■心の傷の原因は、1.災害、2.事故、3.戦争、4.暴力/虐待

PTSDのTはトラウマであり、心的外傷と訳される。変な訳語だが、訳語にしては珍しくツボを突いていて、まさに「心の傷」だということだ。

その心の傷の原因は、4種類に分かれると言われる。それらは、

1.災害、2.事故、3.戦争、4.暴力/虐待

の4種類だ。

このうち1の災害は、被害者を平等に襲うことから、その心の傷も平等に負う。その程度については個人ごとによるから数値化はもちろんできないものの(被災地での「幽霊」体験など)、たとえば大震災であればそのエリアにいるすべての存在を平等に襲うことから、そこにいるすべての生き物は傷つき、「ことば」をもとにした意味世界をもつ生き物(その代表が人間)は、意味世界の形成と維持を担う「心」が大きく傷つく。

今日は東日本大震災の7年目の日であり、あの出来事に傷ついたすべての人を再び大きな回想となって覆っている。人によってはそれはフラッシュバックになり、人によっては「幽霊を見た」的体験となる。

その体験の中身は様々だが、そこで傷を負ったという事態、その出来事に巻き込まれてしまったということ自体はすべてに平等だ。

■共有しにくい出来事

災害に似ているのが3の戦争だが、前世紀の世界大戦と違いこの頃の戦争はテロと内戦だから、全員を平等に不幸が襲う(たとえば悲しい出来事だが原子爆弾)ことはほぼない。

民族や地域が選ばれ、しかもその中で基地等が厳選されて戦場になる。兵士のトラウマもあるし難民のトラウマももちろんある。が、その不幸は全員を平等に襲うことはなく、広く「選ばれたもの」が被害者となる。

こうした「出来事の縮約」は、事故や暴力と、一出来事に関しての被害者の数が少なくなればなるほど、個別な出来事となる。事故は、たとえば列車脱線事故や交通事故等は、多くて数百人、少なくて数人の規模となる。そのトラウマは市民全員を平等に襲うことはない。

最も個別なトラウマは、DVと児童虐待と性暴力となる。これらは女性や子どもが単独で狙われる最も陰湿な出来事で、その被害感をその被害者以外となかなか共有しにくい出来事evenement(仏語のアクサン省略)だ。

またそのフラッシュバックと「幽霊」(他者の幻影)の可視化は、震災記念日等関係なく当事者を襲う。もちろん災害や戦争の被害者のフラッシュバックも何らかの記念日以外にも容赦なく当事者を襲うのではあるが、今日(3月11日)のような「あの記憶と追悼を共有できる日」を、DV等の被害を受けた人々が平等にもつことはない。

DVと虐待と性暴力にはもちろん「記念日」はなく、そのフラッシュバックは唐突にいつも当事者を遅い、その「襲われた感」を当事者は周囲と共有できないし言えない。

■その絶望はダイレクトに語らない

災害と虐待について、どちらかの優劣を測っているわけではもちろんない。当事者の傷つきと悲しみ、一生襲う負の記憶はPTSDをもつ人々全員に共通する。

が、世界というものはやはり残酷にできていて、「不幸を共有できない不幸」というものがあることは事実だ。その、「共有できない不幸を抱える者」はおそらく経済的下流階層のコア層(子ども食堂にも塾クーポンにも無縁な層)に多いと僕は考えている。

そのコアな人々はもちろん普通に生活している。学校に行き、アルバイトをし、家族や友達と飲み食いしたりお金がない日は食を我慢したりしているだろう。

ただ、そうしたコア層は、残念ながらなかなかホンネを語らない。NPOの支援者を胡散臭いと思っているし、行政職員にホンネをさらけ出すことを警戒している(いろいろ「隠し事」があるため)。

が、絶望的に孤独になる瞬間はあるようだ。

その絶望はダイレクトに語らないし、そもそも「絶望」という言葉さえ知らない言語の貧弱さ、言い換えると「世界の狭さ」の中で生きている場合もある(だから貧困層の会話は時に荒い)。

■何気ない雑談の中から

その孤独は、何気ない雑談の中からこぼれる。

コーヒーを飲んだりトーストをかじったりする時間の中から少しずつ溢れてくる。

高校内居場所カフェでの生徒たちのつぶやきの中に、それら絶望と孤独がふくまれ、時に大きなトラウマが背景に潜む場合もあるようだ。

不平等に子どもを襲う不幸は、サードプレイス内での何気ないつぶやきのなかに垣間見られ、そこでの時間と場所を何気なく共有するだけで、現在の絶望と孤独は和らぐようだ。