貧困親の「手下」の時期よりもはるかに長い人生がそこにある

■わずか60年間で4世代が存在する

現在の経済的下流階層の親(ハイティーン)の親(祖父母)はまだ若く、下手すると30代である。

その 30代の母は、まだ50代だ。ゼロ才~ハイティーン~30代後半~50代半ばというように、たった17~18年サイクルで次世代は生み出されている。

だから、僕の原稿でテーマ化される「子ども若者(上限はハイティーン程度)」を生み出した人々は、まだ若く30代後半だ。そうした人々を生み出したさらに上世代も50代と若い。

子ども問題が想定する人々が幼児だとすると、その親はハイティーン、その親は30才代後半、そのまた親(曽祖父母)は60才にもなっていない。

わずか60年間で4世代が存在する。

そうした狭い世代間に、狭くて固い価値と言語がぎゅうぎゅうづめにされている。

虐待の連鎖とは、こうした狭い価値の連鎖を示し、4世代間にわたってもたいしてギャップのない狭くて軽い諸価値に支配された世界観の中で、それらの人々は生活している。

■はるかに長い

各世代で産み落とされる子どもたちの時間のほとんどは、ルサンチマン+暴力的+自らもサバイバーな親たち文化に取り囲まれている。

「子どもの貧困」は、何より、大人+親となった元子どもである「大人=親の貧困」の問題である。

子ども食堂や高校内居場所カフェには、限界があることは確かだ(それを知った上で「となりカフェ」は現実に臨む)。

そうは言いつつ、子どもたちにも90年の人生がある。そこには、貧困親の「手下」の時期よりもはるかに長い人生がある。それを、虐待サバイバーの結果、軽度の知的障害を背負わされ価値を狭められたハンデをもつ親たち(親たちも被害者だ)は、理解する宿命にある。

その宿命を拒否して、子どもたちを自分たちのように再生産させる道を選ぶこともできる。

が、それでいいのか。

この点は、規範的に迫っても反発されるだけで、また支援者として迫っても甘えられるだけ。また理論的に迫っても対岸の火事だ。

今のところ、「信頼できる身近な他者」として親たちとトークすることが、親たちを変化させるための一番の近道のような気もする。

■「変な大人」たちが、ハイティーンからは信頼される

信頼できる他者は、臨床心理士や精神保健福祉士や教師といった専門職ではない。

それは、社会の規範から少しズレた「変な大人」なのかもしれない。

あるいは、大人になりきれない若い人々であるかもしれず、そしてその所属組織は多くの大人たちからは疑問符で語られる組織、つまりは「F級大学生」かもしれない。

こうした「変な大人」たちが、案外ハイティーンからは信頼される。

貧困親から、その「手下」である子どもたちはいつかは離れる。だが、貧困親のもつリジッドな価値をほとんどの場合は引き継ぐ。目の前に貧困親はいないのに、刻印された狭い価値は親の不在にもかかわらず子どもたちを支配する。

が、サードプレイスの住人である「変な大人」が醸し出す自由な価値が、貧困親が指し示したリジッドな価値を打ち砕く。

貧困親たちが求める「手下」の時期はそこで終わり、それぞれの人生が始まるが、「変な大人」からもらった価値が自由であればあるほど、貧困と虐待の連鎖から解き放たれると僕は思っている。