発達障害者の美しさ~また、それは過渡的概念でもある~

■「発達障がい者支援-精神科診療所に期待すること」

昨日12/14、大阪は梅田にて、「発達障がい者支援~精神科診療所に期待すること」と題するフォーラムが開催された。

主催は「(公社)大阪精神科診療所協会」で、進行は大久保圭策医師と西川瑞穂医師(いずれも大阪ではよく知られた開業医)、パネラーは、当事者代表で広野ゆいさん(NPO法人DDAC代表)、福祉支援者代表で星明聡志さん(ジョブジョイント代表)、そしてNPO代表の僕という組み合わせだった。

大久保医師は自分のFacebookタイムラインで以下のように昨日のイベントを振り返っている(大久保 圭策

昨晩は、広野ゆいさん、田中俊英さん、星明聡志さんをシンポジストに迎えての大精診主催のシンポだったのだが、実に濃密な内容だった。発達障がい臨床におけるもっとも重要なところがギュッと詰まっていたように思う。司会をしていて、こんなに面白かったのは久しぶりだった。

発達障がいという概念は、発展的に解消するべき過渡的概念に過ぎないというのが、不肖わたくしの持論だが、この概念を、より多様な生き方、働き方を保障できる社会を創出する梃子にすることこそ、この概念のレゾンデートルなのだと改めて実感した。

三人のシンポジストに、改めて感謝したい。

■「発展的に解消するべき過渡的概念」

確かに発達障害的「生きづらさ」はどの時代にもあり、それはたとえば現在70才を過ぎた団塊世代にもそうした特徴をもつ方々はたくさんいる。

けれども団塊世代が若者だった70年代前半は日本は高度成長のど真ん中で正規雇用率が高く、多少「空気が読めいい」(同調圧力に呑み込まれない)人でも、企業社会に溶け込むことができた。

けれども「失われた20年(以上)」の現在、空気を読めない若者はなかなか企業社会に入り込めず、多くは非正規雇用として雇用されている。

その空気の読めなさ、生きづらさは、10年ほど前から「発達障害」と名付けられ、その「障害」的語感はさておき、そのように意味づけしたほうが意味づけしないよりも、当事者も保護者も納得して社会参加できるようになっている。

これが大久保医師の言う「過渡的概念」という意味だ。

団塊世代の時代は少し「変わり者」ですまされた人々が、現在は「発達障害」としてカテゴライズされる。いまの経済状況が変化すれば、このカテゴリーも徐々に変化していくだろう。

まさにこの発達障害というものは、「発展的に解消するべき過渡的概念」だと僕も思う。

■美しさ

もうひとつ、大久保医師も書くように「ギュッと詰まった」議論をすすめるうちに、終盤になって僕は、発達障害者に対して描くイメージを明確に言語化でき、それをマイクを通して語った。

それは、

発達障害者は美しい

ということだ。

発達障害者は、たとえばアスペルガー症候群の方は、美しいというよりは、ややこしい、あるいはめんどくさい、堅い、融通がきかない、等で普通は語られる。

または、傷つきやすい、鬱っぽい人々として。

または、空気を読まず攻撃してばかり、事実をまったくオブラートに包まない、等で語られる。

こうした表象あるいは表現方法は、当然「同調圧力」日本社会からは浮き、徐々に孤立して鬱状態に陥る。

そうした鬱状態、あるいは攻撃性、あるいは傷つきやすさ、あるいはめんどくささ、すべてを含めて、僕には彼女ら彼らが、最も「人間らしさ

」を象徴しているように感じられる。

人間とは誰もが基本的には、めんどくさくややこしく傷つきやすく集団からズレ孤独である。

それらの要素をピュアに凝縮した人々が発達障害者だと僕には思われ、そのあり方がどうにも僕には、

美しい

と感じられるのだ。

当事者が40代になり、独特のユーモアや諦めを抱いている現在、一層僕は「美しい」と思い始めた。

これらを気づかせてくれた点で、昨日のフォーラムは僕にとって収穫大だった。

昨日のフォーラムのチラシ
昨日のフォーラムのチラシ