ママ・ドン・ゴー、ママ行かないで

■親を憎みつつ離れない

時に例外はあるだろうが、児童虐待の被害者である子どもは、親を憎みつつそれでも離れることが難しい。それは「愛」のような規範的概念ではなく、また「生存戦略(大人に合わせることで弱き子が生き延びる)」のような生物学的理由だけでもない。

愛でもあり生存戦略でもあるのだろうが、また「愛着/アタッチメント/くっつき」形成上刷り込まれてしまった形式でもあるのだろうが、それらすべてをひっくるめて、子は親に「くっついて」いく。

それはおそらく、ハイティーン程度頃まで続く心理のように思える。ハイティーン頃、早い人で妊娠し、親になる。また親になるまでもなく、親以外の濃密な(身体的接触のある)人間と交流し、つきあい、セックスをする。

そうした事態を経て、子は親の「所有物」あるいは子から見ると「愛着(アタッチメント=くっつき)対象」から徐々に逸脱する。早い人で10代で自分が親になり、子を愛して今度は自分が親としてアタッチメントを形成したり、今度は自分が親として子を虐待(アビューズ=力の濫用・不正)する。

その連鎖はしぶとく、虐待については、前々回で「プライド」の重要性についてふれた(プライドをたいせつに~貧困連鎖脱出のために)。

そのトラウマ体験は、プライドを再構築するなど様々な方策で乗り越えていったとしても、一生当事者に取り憑く。それは「幽霊」のように当事者の影に寄り添い、時宜をわきまえずに突然出現する。その「ネガティブなゴースト」が、時にアートを生んだりもするが、多くは当事者を一生苦しめる影として常時待機している。

■親の子への戦略

僕が関心あるのは、「親の子への戦略」だ。

子が親に一生くっついたり憎んだりするのは、子の愛であったり規範であったり生存戦略であったりする、まさにいじらしい行為なのでそれなりに理解できる。

弱き子は、アタッチメントの結果現れた愛、人間世界のモラル、自分が生物として生きていくための戦略として親擁護に走る。憎みながら、「出会った初めてのヒト」である親に濃密な感情を抱く。

それに対して、これだけ虐待数が多いということは、生物学的に「初めから」親は子を擁護の対象、本能として守り続ける対象として位置づけているわけではない。

親は、自分の親を見て(反面教師にしろそのままにしろ)、自分がしてくれたことを子に差し戻そうとする。その結果、親密過ぎる擁護であったり、その反対の虐待として接してしまう。

そこには上に触れたような「所有物」としての子という感情はとりあえずあるだろう。自分のモノであるから何をしても許されるという感覚はわからないでもない。それがたとえ性行為だろうが、他者間の境界が低くなる関係性においては、その一歩を押す欲望に正直になってしまう親もいるかもしれない(数としては公式調査の数万件どころではないと思う)。

■ジョンレノンの「マザー」

ジョンレノンは「マザー」のなかで、「ママ・ドン・ゴー」ママ行かないで、と叫んだ。不遇な少年時代を過ごし、その結果ハイティーン以降傑作群を連発し41才で『ライ麦畑でつかまえて』マニアに殺されてしまったレノンの代表作だ。

僕は孤独だった高校時代にこれを聞いて、具体的には冒頭の鐘の響きとジョンのシャウトを聞いて、長い長い子ども時代が終わったような気がした。

その意味でジョンに感謝している。そんな人は、世界中に5,000万人くらいいるかもしれない。

今年僕は53才になり、50才で親となりその子も3才を越えるようになったいま、寂しさと怒りのジョンだけでなく、その「母」のことも想像できるようになった。

諸事情で我が子を虐待したり離反したりする親にとって、子はどういう対象なのだろう。現在、児童虐待の被害側の子の環境を整えることが叫ばれ(重要だ)、18才以降のPTSDへの対処の社会資源づくりが僕は必要だと思う。

と同時に、児童虐待に関して、福祉とか刑法といった社会システム上からそのコミュニケーションを断罪してばかりではなく(重要だ)、子のアタッチメント/くっつきの複雑さと、親の感情の放浪・さまよいといった視点からもそれを検討してみてはどうだろうか。

我々のなかにはジョンの母の要素がすべてとりこまれ、同時に子として「ママ・ドン・ゴー」とシャウトしてもいい可能性も含まれている。そのすべての感情を潜在化させずに顕在化して語る言葉がほしい。★