狂い咲きシルバーロード~美しく醜いシルバーデモクラシー

■浅丘ルリ子のセリフ

最近、倉本聰脚本の『やすらぎの郷』という昼ドラが人気のようで、高齢者たちがクラモト的セリフを吐くその展開が、若者向けドラマを嫌悪するシルバーたちに大受けみたいだ。

それはこのネット記事(文春オンライン2017年04月17日 今、日本で最もヤバいコンテンツは昼ドラ『やすらぎの郷』だ お昼の「シルバータイムドラマ」に込められた、倉本聰のテレビ界・芸能界への挑発- 宇野 維正])を流し読むだけで十分だ。

同記事よりちょっと引用すると、

「あたしの事、どう思う? うん…そりゃあ、あたし、年だけは取ったけど、昔となんにも変わってないのね。スリーサイズも、まあおおかたそのまんまだし、肌も不思議なくらい若い頃のままなの。脱げって言われりゃ、今だってすぐ脱ぐわよ」

「今だって(枕営業は)あるわよ」

等が、浅丘ルリ子ほか名優たちによって演じられているらしい。昭和映画をこよなく愛する僕としては一度見てみたい気もするものの、「映画」の横暴さ(時間的長さや「物語」の拘束)に嫌気が指したのと、平日はテレビがない環境で暮らしているため、僕はまだ直接『やすらぎの郷』は見ていない。

が、引用した宇野氏の記事やセリフを読むだけで十分そのテーストは想像できる。

つまり、高齢者たちは「欲望」にギラギラしているということだ。

そして、高齢者やお年寄りだからといって別に達観も人間的完成も宗教的開眼も哲学的夜明けも迎えているわけではなく、彼女ら彼ら「年をとった人間ども」は、相変わらず日常に振り回されギラギラし同時に悲しく切なく同時におカネにも苦労している、「普通の人々」だということだ。

■シルバーデモクラシーの力学

シルバーデモクラシーはまだ明確な提議がされていないと思うが、ひとことで言うと、多数派である高齢者の「塊」としての存在が、社会の声として代表されるということだ。

これは一人ひとりの高齢者がどれだけリベラルだろうが右翼だろうがパンクだろうがアートだろうが関係はなく、「近々死んでいく人たち」の集合体としての声が、社会のマジョリティになっていくということである。

そうしたシルバーデモクラシーの事実をどこかでは知りながら、社会を動かす現役世代はこれまでと同様、現役世代自身のことと、その次の社会を担う「子どもたち」のことを考えて動いている。

だからメディアやアカデミズムは、現役や引退世代が社会保険を前倒しし生活水準を維持している現在の偽善性に異を唱え、次世代の不利さに配慮するよう指摘する。

僕もまったくそのとおりだと思うものの、なぜか、「未来の社会を担う子どもに投資する社会になろう」とメディアが呼びかけてもそれは呼び声ばかりでなかなか現実化しない。

現実は、いかに年金を減らさないか、いかに医療費をいまのままで据え置くかに焦点化されていく。

NPOなどが(広義の)ポリティカル・コレクトネス的に「正義」を訴えるその主張(子ども若者に投資する社会になろう)は、メディア上では歓迎されるものの現実化は遅い。

また、保育園の制度的完成も程遠い。

ここには、シルバーデモクラシーの力学が働いている。

そして、その「デモクラシー」の中心にいる人々は、決して仙人ではなく、倉本聰ドラマに登場するような人々ばかりなのだ。

■85才のダンス

実際僕も、たまに帰省する四国で、75才の母親から聞く地元の高齢者たちの話は、ギラギラなシルバーたちのエピソードばかりだ。誰が誰に嫌がらせした、誰はグループのなかで上手に振るまわっている、85才になって家族から免許を取り上げられもめている等、こうしたエピソードはドラマ内だけではない。

みなさんの地元でも(都会でも田舎でも)そんなものでしょう?

高齢者の現実とは、

「死ぬまで人間はアタフタと欲望や苦悩に突き動かされており、むしろそのほうが長生きできる」

ということだ。

ちなみに僕の本業のひとつである「ひきこもり支援」のなかでもそれは感じる。

最近話題の「高齢ひきこもり」(40才なかばの当事者)支援のなかで、その親達(後期高齢者入りしている)と面談していると、75才以上といってもその悩みは50代とあまり変わらない。

変わることといえば「死が近い」ということなのだが、人間は本当に死がそこに迫るまでは90才と言えども自分の死のことをリアルに想像しないものだ。

それよりも、僕がアドバイスする、

「おかあさん、75才を超えたら100才目指してがんばりましょう。おかあさんが生きれば生きるほど、その年金により子どもの生活は維持できるし、おかあさんがもっと身体が弱ってきたら、案外子どもは病院に着替えとか持ってきてくれたりするものです。ひきこもり支援はこれまで十分がんばりましたから、これからのおかあさんは自分の長生きが結果的に最良のひきこもり支援になると思って、ムリない範囲でウォーキングしましょう!」

という僕の提案に目を輝かして聞き、それ(ウォーキングとかダンス)を実践する。

その姿を見ていると、80才を前にしているとはいえ、とても「お年寄り」には見えない。

他の高齢者も含め、年はとってはいるが、元気で明るく、同時に人間らしくズルく嘘をつき秘密を持ち、誰かを好きになり誰かを嫌いになり、常に現実に不満を抱え未来に理想をいだき(85才になっても!)、時にロマンティックになり時に残酷になり、近しい人を利用したり皮肉をいったり、まあつまりはまったく「人間」している。

結果として瞬間のなかで悩み笑い怒り悲しむその「狂い咲き」の仕方は、あまりにも人間的なのだ。つまり、それは「欲望」だ。

■理想とタテマエに燃える単純な「若さ」は、数が少ない

現実のシルバーたちはそんなものだ。

そうした、醜く美しい欲望や悩みゆえの元気さが、理想とタテマエに燃える単純な「若さ」(若者やポリティカル・コレクトネス的言論やNPO的社会事業等)よりも数としては断然多い。

そのどうしようもなさを認め、多数派の欲望を対象とするサービスを提供することが「資本主義」ではある。その多数派が高齢者ばかりだとしても。

が、メディアや広告業界やメーカーを担う現役世代たちにそれができるのだろうか。

その一歩手前で関係者が割り切れていないのが現状であり、倉本聰ドラマの高視聴率に対して戸惑うテレビ関係者の迷いなのだと思う。

もう少ししたら、美しくて醜くてイヤラシイが笑える、高齢者を対象としたテレビ番組ばかりになるだろう。それは、若者が多かった時代のアングラ映画のタイトルである「狂い咲きサンダーロード」というよりは、「狂い咲きシルバーロード」的な刹那だけど笑うしかない美しい名前のエートスだろう。★

文中引用記事より。「やすらぎの郷」の名優たち。
文中引用記事より。「やすらぎの郷」の名優たち。