ポストトゥルースは、子どもの貧困も疑う

■それらが渾然一体となって「貧しさ」という意味をつくりあげる

前ウルグアイ大統領のムヒカ氏は、いわゆる「清貧」代表として度々日本のメディアでとりあげられる(少し前のインタビューだがたとえばこれ→【世界一貧しい大統領インタビュー】 「富を求めるよりも人生には大切なことがある」「広島へ行くのは日本人へのリスペクトです」)。インタビューを読むとたしかに尊敬できる人物のようなのだが、僕などは、この裏にはインタビュー内容以上に複雑な人生の旅路があっただろうと想像してしまう。

いわゆる「清貧」的イメージは、貧しさのリアルが曖昧になるという点で僕は苦手だ。貧しさは、清いだけでもないし、当然美しくもない。

また、「子ども」だからといって、同じく清いだけでもないし美しくもない。だから、少し古いが中野孝次『清貧の思想』への支持や、現在の子ども支援NPOが無条件に貧困層の子どもを肯定する思想には僕はついていけない。

というのも、僕はいま52才で出身は四国の超田舎なのだが、友人たちは一部中流層もいたが、たいていは今で言う下流層で、そこでの子ども集団はまったく清くも美しくもなかったが、かといって汚れているわけでもない、なんというか、「毎日を生ききっている」としか言いようのない、素朴なエネルギーに満ち溢れたものだったからだ。

そこには障害児もおり被差別エリアの子どももいた。また、両親が不在で祖父母に育てられた子ども、小学生の僕から見ても服装が1年中同じで入浴していないせいか異臭を常に放つクラスメートもいた。逆に、「地主」層の子どもや小規模事業所の社長の子どもや被差別エリアではあるがそのなかでも富裕層の子どももいた。

それらが渾然一体となって「貧しさ」という意味をつくりあげており、そこには施されるもの・施すもの、教えるもの・教えられるもの、それらの境界がわからないまま、人々の日常があった。

■本当に弱いものは誰かもわからなくなる

そんなところでは、一面的な「貧困」などは現れないし論じきれない。それを単純に清貧とも表現できないし、本当に弱いものは誰かもだんだんわからなくなる。

貧しさは時としてパワーを生み出し、小学校の図工の時間で描かされた田園風景の水彩画のなかには、超貧困友人が描く田植え風景が僕にはとても印象に残ったりしている。

いじめについても、単純な暴力のパワーバランスはなく、脳性麻痺が残るクラスメートはいじめられながらも常に守られている。ときには、いじめられるものといじめるものが同じだったりするので、いじめの構図があまり明確ではない。

そうすると、その障害児の友人は、なんとなくクラスになくてはならない存在となっていき、その子が泣いたり叫んだり笑ったりするのを聞かなければ、そのクラスにその子がいなければなんとなくみんなが不安な感じになったりする。

そしてその障害児の父は、小規模事業所の社長で、母も含めてものすごくいい人だったりする。

書き始めたらキリがないのだが、ムヒカ氏のインタビューを読んでいると、僕以上のたくさんの重層的な体験をしてきたと思う。それをひとことで「清貧」とはとても僕は呼べない。

だから当欄などで多少ひねた見方を僕は書いてしまうのであるが、この「ひねた見方」が、今でいう「ポスト・トゥルース」につながってしまう可能性もある。

■マスコミを「マスゴミ」と呼ぶということ

ポスト・トゥルースとは、脱真実というよりは、どうやらプレ真実的な、「事実として社会的に認定される以前の情報」を指すようだ。

言葉の正確な意味としての「事実」は、現実にはない。よくいわれるように、そこには伝える側の無意識的/意識的操作が組み込まれている。SNS時代以前であれば、マスメディアによって事実は事実として断定されることが、マスコミの存在感が低下した現在、各自のSNSに伝わってくる「つぶやき」やニュースがそのまま事実になってしまう。

これをポスト・トゥルースやフェイク・ニュースと嘆いても仕方がない。マスコミを「マスゴミ」と呼ぶということは、共通認識的レベルを疑うということであり、これまでは暗黙の了解で成立していた「一応の客観的真実」を捨てることである。そうなると、それぞれのニュース・リテラシーが問われることになり、情報の自己責任時代に我々は突入したということだ。

僕が興味深いのは、情報の徹底的な自己責任化と相対化の時代になったとき、人々は「なぜトランプを選ぶか」ということだ。共和党候補者の中にも、トランプほどの「フェイク」ではない、もう少し穏健な候補者がいたはずだ。

が、人々は主張が明確で「ヘイト」的なトランプを選んだ。

これは日本でも同じで、教条的ポリティカル・コレクトネスにまみれた民進党の支持はどんどん落ち(これはアンチ・フェミニズムに連なりヒラリー落選ともどこかでつながる)、ナショナリズム的内向き的志向は益々元気だ(当欄は政治を語る場ではないが、穏健的保守と新自由主義的保守の二大政党化が目の前に来ていると思う)。

■ガルシア・マルケスや中上健次

子どもの貧困や「清貧」を無条件に受け入れその対応策を素朴に論じつつ、一方では、国民の過半数はどこかでそうした素朴さをそれぞれの目線で疑う。子どもの貧困対策という圧倒的ポリティカル・コレクトネスに対して、現実の複雑さからそこに口を閉じたり茶々を入れたりし、投票行動や世論調査といった匿名の場では、そうした素朴なコレクトネスを否定する。

このような複雑な事態になっているのが現代だ。従来は、民進党的ポリティカル・コレクトネスが「真っ当さ」で押し切っていたのだが、オバマが去りトランプが出現したことで、その真っ当さに力がなくなった。

教条的なポリティカル・コレクトネスではなく、また「ヘイト」やトランプでもない、それこそ現実的なポリティカル・コレクトネスはどうすれば表現できるのだろうか。

僕が上に書いた貧しさのリアルは実は、深遠な言語表現としてすでに達成されている。それは、ガルシア・マルケスや中上健次たちの文学世界でありその他映画や音楽に見られるアート作品に結果として現れていると僕はこの頃思ってきた。それらが、現実的なポリティカル・コレクトネスとつながる可能性はあるだろうか。★