「PC」はパソコンではない〜西宮市長とトランプ

■オバマの「きれいごと」

少し前、当欄に、「子どもの権利」やトランプ大統領当選と引っ掛けて「ポリティカル・コレクトネス」について書いてみた(ポリティカル・コレクトネスの矛盾~「子どもの権利」は正しいが全員から支持されない)。

ポリティカル・コレクトネス、政治的正当性とも訳されるこの言葉の意味は普通、マイノリティ擁護に基づいた「ことばの言い換え」(たとえば、「インディアン」→「ネイティブアメリカン」)と受け止められがちだが、そんな表面的なものだけではない。

ことばの言い換えをせざるをえない「差別される人々への配慮」が、結果として非常に堅っ苦しい雰囲気を言説に混入させ、コミュニケーションの自由さを奪ってしまうという皮肉がここには含まれている。

その反動として、「トランプ現象」が生まれたとも言われる。

当選してしまえば大統領選中のスピーチの印象はだいぶ薄められつつあるが、マイノリティに配慮する民主党の公式見解(ポリティカル・コレクトネスに基づいている)への「素朴な反発」を、トランプ氏は上手にすくいあげていた。

民主党政権の言うすべてのマイノリティに配慮した政策は、白人マジョリティだけではなく、さまざまなマイノリティ層にも若干の息苦しさを与えていたようだ。その結果が、僅差ではあるもののトランプ当選に結びついたといわれる。

僕は個人的には、8年前のオバマ大統領の当選スピーチに涙した1人だ。オバマが演説の冒頭で決まり文句のように並べる多くのマイノリティ(人種や性的等)の具体的名称には、ここまでアメリカは到達したんだとある種の感慨に浸ったものだ。

が、あれから8年たち、そのオバマスピーチの「きれいごと」に、アメリカ国民の過半数が辟易している。そんな綺麗事よりも、地方が少しは潤う政策を展開してほしいと。

■西宮市長の「ホンネ」

トランプからは離れるが、たとえばこの西宮市市長の「喫煙容認」事件も賛否両論呼んでいるが(西宮市長 「中高生時代の喫煙」発言撤回を可決 市議会)、根本的には上に見たような「広義のポリティカル・コレクトネス」の問題だと思う。

ポリティカルコレクトネスは単なる言葉の言い換えではなく、政治や社会活動が持つ「理想とホンネ」のコントロールのことだ。

たとえば西宮市長のような政治家ポジションにつくと、ホンネの部分(未成年喫煙の許容等)は市民の「共通理解」だと表明すること程度が限界になる。

だが、自分の体験としてそれを語るのは、政治家/市長というポジションからするとアウトだ。公式な市民代表であり同時に大きな権力をもつ「市長」という立場は、一定のポリティカル・コレクトネスを受け入れることがその条件になる。

市長/政治家という社会的ポジションを離れた時、市民の共通理解を言語化することは自由になり、それを職業化しているのが、たとえば小説家や評論家、あるいはテレビ・タレント等のポジションだ。

この市長が、「タテマエ」を越えた発言で市民の共感を得ようとした狙いはわかる。また、10代でタバコを経験するのは誰もが知っている事実であり、市井の会話では、普通行なわれているものだ。

が、これが市長ポジションの人が言ってしまうと、「コレクトネス」に引っかかり、社会の均衡が危うくなってくる。「わかっちゃいるけど言ってはいけないこと」は別に規範的市民感情だけではなく、社会秩序維持に必要ないわば「相対的善」のようにも僕には思える。

この「相対的善」をこの頃は軽々と飛び越えてもいい風潮になっており、それがトランプ人気であり、日本ではヘイトスピーチとしてギリギリ許容されてきた(日本の許容のされ方は異常だと僕は思うが)。

■「なんだ、PCのことですね」

目の前の市民にウケるだけの発言はポピュリズムすぎ、かといってガチガチのポリティカル・コレクトネス(たとえば「絶対に喫煙禁止」)だけでは物足りない。西宮市長はその隙間の現実を市長なりに突こうとしたのだろうが、それは引退後にすればいいことだった。

そういえばこの前、僕が非常勤講師をしている京都精華大学の授業でポリティカル・コレクトネスを語っていた際、板書にはカタカナで書いたので留学生には最初はわからないようだった。

が、言葉で発声すると「なんだ、PCのことですね」と言われたのが印象的だった。

その学生の国では、PCといえばポリティカル・コレクトネスだが、日本では「パソコン」になる。「この大学ではPCがパソコンになって、気軽に意味が通じない」と学生は笑っていたのが、これは、この手の議論に慣れていない日本をよく表している。

タテマエの息苦しさが、即、その反対の職業倫理違反となってしまう。または、ヘイトスピーチになる。息苦しさがあれば、そのあいだの議論を見つけていけばいいのに、極端にヘイトする。

PCはパソコンでなくポリティカル・コレクトネスだ。そうした、社会正義や社会貢献に関しての必須の議論が空気のように機能するようにならないと、我々の社会からヘイトはなくならないだろう。柔軟性がない社会なのだ。★