ポリティカル・コレクトネスの矛盾〜「子どもの権利」は正しいが全員から支持されない

■プロレスとトランプ

今回のアメリカ大統領選でのヒラリーの敗北は、すべてのマイノリティ支援運動に大きな問いを投げかけている。当選者がトランプ氏なだけに氏の個性や主張をアメリカ国民は支持したと思いがちなのだが、多くの記事をチェックするうち、今回は総合的に「ヒラリーの敗北」あるいは「ヒラリーに代表されるポリティカル・コレクトネス(社会的公平さ)の敗北」であると僕は確信した。

たとえばこの記事等(トランプ氏を支持した「物言わぬ多数派」の学生たち)、いま出ている夥しい数の選挙論評を参照してほしい。

この頃は徐々に「ポリティカル・コレクトネス」に対する息苦しさ・物言えなさが、トランプに代表される「適当だがタテマエではないホンネが見える」議論へと近づいていることを示している。

トランプの手法にはプロレスのそれと比較される(“暴言王”トランプの原点はプロレスのWWE)。引用した記事だけではなく、いくつかのエッセイや記事が、トランプ現象とプロレスの「筋書きのあるバトル」やバトル前後のマイクパフォーマンス等に言及しており、そこに含まれる嘘とホンネを人々は楽しんでおり、そのこととトランプ当選は同じ地平にあるというのだ。

確かに僕も長らくアントニオ猪木ファンだったので、この「嘘とホンネのエンターテイメント」の魅力のほうが、ヒラリー的というか「プライド」(ちょっと古いかな)的真剣なバトルよりも「人間味」があって好きになってしまう、というのはわかる。現在、女性を中心とした新しいファンを獲得して、プロレス人気が蘇ったこともなんとなく納得している。

プライド的チョークスリーパー(ワザは正統だがその正統さを理解しなければ何やってるのかわからない)よりは、猪木的まんじ固めのほうが「嘘だけど本当」っぽい。

プライドは結局消え去り、プロレスは復活している。この、「嘘だが人間っぽい」という点を押さえた言説でなければ、人々を息苦しくさせるようだ。

ポリティカル・コレクトネスは、本当だけれども「人間」「嘘」「余白」を楽しむ余裕がなく、その正統さが多くの人々を遠ざける。

■「子どもの権利」が正しいことは誰もが知っている

僕の仕事の分野でいうと、「子どもの権利」が正しいことは誰もが知っている。そして「いじめ」もダメだし児童虐待も当然ダメだ。学校の硬直的なあり方も広く共有されているだろうし、未熟な教師がたくさん世の中にはおりそれらが日々ミスっている(いじめ扇動等)ことも広く知られている。

だからこれらリジッドな(堅い)教育制度に対して、「子どもの権利を守ろう」と、主としてリベラル的な人々は声をあげてきた。僕もそこに含まれ、20代は教育・医療問題の編集者として、30才以降は現場支援者・NPO代表として「子どもの人権」を守るために仕事をしてきたつもりだ。

が、編集者時代からいつも直感的にではあるが思っていたのは、「声高に『子どもの人権』を唱えても案外人々はついてきてくれない」ということだった。

一部の人々(リベラルや人権的運動の実践者)は当然ついてきてくれる。だがそれはいつも多数にはならない。かといって人々の多くが子どもの人権を否定しているかというとそうではなく、子どもの人権は大切だけれども学習会に参加するほどのモチベーションはないという人々が一定割合いた。

僕が体験したものとはまったく規模は違うが、今回のアメリカ大統領選でも、ヒラリーに「投票しなかった」人々が、前回の「オバマには投票した」人々よりも上回ったことがポイントだったと言われる。いわばこの8年間は、オバマの人間的魅力がポリティカル・コレクトネス的堅さをフォローしてきたものの、「ヒラリーという『公平さ』の典型的堅い人物」には票は集まらなかった。

だからこそ、ポリティカル・コレクトネスは負けた。言い換えると、だからこそ、ポリティカル・コレクトネスだけを前面に出すとはなぜか人々は離れることが鮮明になった。

■それは「善悪の倫理」とくっついているから

ポリティカル・コレクトネスがなぜ「堅い」かというと、それは「善悪」の倫理とくっついているからだと僕は考える。

マイノリティや社会の潜在的問題を代弁・代表することは必要だ。

だがそれが「よいこと」であるとなった時、その運動をしないものが「悪いもの」として自動的に排斥されてしまう。それはまさにオートマチックに起こる運動であって、運動をしないものは倫理的というほど大げさに悪くはないのだが、「する人=良い人」の反対に「しない人=悪い人」というある種の概念操作が行われる。

その概念操作は誰が運転しているわけでもないのだが、事を「善悪」の基準で判断する時、我々人間がどうしても思考してしまう自動運動であり、その強制的自動運動こそが我々人間にどうしてもつきまとう「倫理(エシックス)」が引き起こしてしまう限界点だ。

またこれがややこしいのが、そうした善悪基準からの排除の背景に「良心」的ヒューマニズムがあるということだ。良心やヒューマニズムがあるため、ポリティカル・コレクトネスに乗っている人もその堅さや狭さを自覚できないし、そこに乗り切れない人もポリティカル・コレクトネスを正面から批判しきれない。

その良心は誰にも責めることはできず、「よいこと」であり、ここにもまた堅さが存在する。

この立場(良心をペースにした善悪基準を土台にするポリティカル・コレクトネス)にいったん立ってしまうと、人々は単純になるようだ。単純になると、人は「プロレス」が理解できなくなる。その「嘘」や「余白」や「筋書きというエンタメ」を、間違っているもの=悪いものとして一方的に断罪したくなる。

嘘や筋書きも人間だし、正しさも人間だ。が、正しさのほうにだいぶ「善悪」が存在する。そして嘘や筋書きのほうに、最近は「自由」が存在するようだ。

■トランプは漁夫

おもしろいのは、右的存在だといわれる「2ちゃんねらー」の多くは実は中道・常識派だったりする。元ひきこもりの元若者たちも2ちゃんな人は多く、「ポリコレな人々」が大嫌いだったりするものの、僕の知っている2ちゃんねらーたちは心優しい青年たちであり、アンチ左翼ではあるがヒューマニストだったりする。

そう、市井のたくさんのヒューマニストたちをポリティカル・コレクトネスは吸収できなかった。

人間は、道徳の教科書通りに生きているわけではなく、堅いイデオロギーからも自由な存在だ。この自由さを求める多くの人が現代では保守主義と結びつき(日米欧)、2ちゃんねらーは日々一見右っぽいことをネットに書き込む。

反対側では、マイノリティの自由を求めるポリコレな人々が結果として堅い思考に捉えられ、非公式な場でそうでない人々から距離をとられる。その結果、日米欧とも保守勢力が「漁夫の利」を得ている。トランプもたぶん漁夫なのだ。

また「社会貢献というコレクトネス」を条件とするNPOやソーシャルセクターもこれは避けられない問題だが、多くのソーシャルセクターはまだ気づいていない。それは、ソーシャルセクターたちがポリティカル・コレクトネス王道を走っていることでもある。★