貧困者は食べものを受けとらない~「子ども食堂」と貧困支援

■「共生食堂」と「ケアつき食堂」

湯浅誠さんが「子ども食堂」のわかりやすい解説を最近書いていて(「こども食堂」の混乱、誤解、戸惑いを整理し、今後の展望を開く)、急拡大した「子ども食堂」を主として「共生食堂」と「ケアつき食堂」の2つに分類している。

昨今の貧困支援の一環として位置づけられる子ども食堂の取り組みは、湯浅氏の言う「ケアつき食堂](貧困の子どもへの食事支援)と捉えられがちだが、そもそも子ども食堂を創設した方や現在子ども食堂に各地で取り組んでおられる方々の多くは「共生食堂」、つまりは「コミュニティづくりとしての食堂」をイメージして始めているらしい。

僕自身は、大阪府立西成高校ほかで「高校生居場所カフェ」事業を行なっていることから(たとえばこのMBSドキュメンタリー予告編などを参照→ここにおいでよ~居場所を見失った十代のために~)、生徒からのニーズとしてよく現れる「食」に即時対応する貧困支援として、この子ども食堂をイメージしていた。

だがコミュティづくりとしての「共生食堂」をイメージする人も少なからずいる。

食事支援としての「ケア」か、地域づくりとしての「共生」か、この違いは、それぞれが主として接する社会階層の違いにあると僕は解釈している。

「ケア」をイメージする人は、仕事が福祉や教育であり、対象が貧困者/アンダークラスだろう。

対して、「共生」をイメージする人は、同じ「教育」でもたとえば教育困難校であることは少なくもう少し偏差値の高い高校か、あるいは月数万円の学費を設定している民間フリースクールなどをイメージしているのかもしれない(これらは貧困層は利用しにくい)。

■ネットワークと「司令塔」

いい悪いというよりは、「子ども食堂」ひとつの言葉をとっても、主とした所属階層や対象が異なってくると、それを捉える人々の意識も異なるということだ。

これを湯浅氏は誤解や戸惑いと表現するが、僕は、階層社会となった我が国ではこれからも生じる混乱だと思う。

「子ども」や「食堂」という基本用語だけでも、対象・所属階層が異なると意味も異なる。現在起こっている「子ども食堂」に関する大きな盛り上がりとある種の混乱は、日本社会が階層化したということのひとつの証明でもある。

僕としては、「食堂]アプローチが有効なのは、「共生としての子ども食堂」のほうだと思っている。「食」という最大のコミュニケーション機会を利用して、参加者が交流し情報交換し新しく関係性を紡ぎ、おいしいものを食べる。

おいしいものを追求し共有するというアプローチが、複雑で広い人間関係を創造していき、そこに子どもも巻き込まれることでそれぞれの価値が広くなる。学校という単一価値から飛び出る格好の社会資源として「共生としての子ども食堂」は機能する。

当然「ケアとしての子ども食堂」にも「食」は有効だ。が、貧困支援の場合、「食」も重要ではあるが、その子どもに関する「支援のネットワークづくり」のほうが優先される。

たとえば「食べていない」という情報に接した時、支援者たちは当然児童虐待の一つであるネグレクトを想定し、その背景にある家庭環境と保護者の情報に関心が向く。親のあり方(シングルやステップファミリー)、きょうだいの構成(きょうだいたちのそれぞれの親と、目の前の生徒の親の同一性等)、生活保護の有無等を自然に考え、虐待はネグレクトだけか、虐待の加害者は誰なのかを想像する。

そうしたイメージを確定させるため、職場仲間と相談し情報収集につとめ、集めた情報をどう共有するかを相談し(あるいは1人で)考える。

同時に、その「ケース」の場合、どう「ネットワーク」を組み、どんな会議を設定していけば有効かを考えていく。そして、そうしたネットワークの中心、つまり現段階の「司令塔」にはどの機関の、どの人がなるのが適切かを考える。

■クッキー

これらが支援の出発点となる。

実際の貧困支援は、いくつかの機関が結びついて行なわれるため、また、「個人情報」の壁がつねにつきまとうため、加えて、次から次に現れるケース(恋人やきょうだい、時には母も被害者であることも)の複雑さから、すぐに有効なネットワークが形成されることはまずない。

支援機関とそこに属する現場支援者自身が多くのケースを抱えていることも加わり、有効なソーシャルワークはなかなか行なわれることはないと僕は考えている。

が、それでも、日本の、子ども若者への支援者たち(多くは行政機関)は日々がんばっている(がんばってない人も燃え尽き寸前の人もいる)。行政から事業を委託されたなかで僕もそうした貧困支援の末端で関わりながら、毎日それを実感している。

子ども食堂は有効ではあるが、以前も書いたとおり貧困者ほど子ども食堂を嫌う傾向もある。貧困を認めてしまうような場には、真の貧困者は出て行きたくない。プライドが傷ついてしまうからだ。

子ども食堂的「ケア」は有効ではあるが、おいしいものがあるよ、だから無料で(格安で)食べたらいいよ、では、貧困者はやってこない。

もちろん「食」のサービスへのニーズはある。が、そのニーズはオープンな食堂では決してないだろう。

たとえばこの前僕は、ある生活保護の若い男性のつきそいで某福祉機関を訪れたが、そこでの手続きが終わって、僕のカバンの中に偶然入れていたクッキーを偶然差し出してみると、ふだんは食べ物を決して受け取らない彼が、満面の笑みを浮かべて受け取った。そして静かにそれを自分のカバンに入れた。

■支援は遠大なプロジェクトでありアート

彼はその日はどうやらずっと空腹だったようだ。が、それを誰にも言わず過ごしていた。その空腹が彼の日常なのだ。

ふだん僕が差し出すお菓子類はほぼ拒否する彼なのだが、たまたまその日その時、僕の差し出し方がおそらくものすごく「自然」だったのかもしれない。支援者らしくない僕のその差し出し(「食う?」みたいな)が、彼のプライドを傷つけることなく、自然とクッキーを受け取ることができた。

子ども若者への食のケアとは、それほどナイーブなものだ。

だが、こうしたナイーブな食のケアは、上に書いた支援ネットワークの多数あるアプローチに含まれる。

そのアプローチは、「戦略的」に組むケースカンファレンスを土台にし、「長期目標」と「短期目標」の下にぶら下がる「アクションプラン」のひとつにすぎない。

アクションプランのひとつにすぎない「子ども食堂」が前面に出てしまうと、戦略的ケース支援が崩れる可能性もある。

支援とは、1人のクライエントをめぐる遠大なプロジェクトであり、ある意味アートでもある。その一部門の子ども食堂を際だたせることは、少し危険なのだ。★