この手首(子ども)は自分のものだから、傷つけてもいい~児童虐待の根源

■子どもの写真とSNS

この前ネットのニュースを見ていると、子ども時代の写真をSNSにアップした親に対して訴訟を起こしたオーストリアの記事が掲載されていた(幼少期の恥ずかしい写真をSNSにアップされたとして娘が親を提訴!)。

この記事からはどんな写真かはわからないものの、思春期を過ぎた子ども当事者が、幼児期の自分の写真を親によってアップされ続けられる辛さは想像できる。

これに対して、当裁判の親は、子どもと争うようだ。

この裁判自体の成り行きは追ってはいくものの、僕の関心は、「親はいくつまで子どもの肖像権を所有する権利があるか」、あるいは「子の身体はいくつまで親が所有するか」という、少し哲学的問いに集約される。

というのも、SNSなどでは、自分の子どもの写真をアップする親たちで溢れている。それに対する「所有」の問題(子はいくつまで親のものなのか/所有物なのか)をだいぶ前から僕は考え続けているが、まだ答えは出ていない。

その問いに対して、オーストリアでは裁判になった

この問いと、児童虐待は隣接する問題系だと僕は考えている。

児童虐待する親、特に身体的虐待や心理的虐待(ことばの暴力)に及ぶ親たちの「瞬間の心理」は、おそらく何かのブレーキがはずれた状態だと想像できる。

暴力とは、暴力を振るう主体にとって、暴力主体自身による制止が効かなくなった状態であり、その暴力のなかでもある意味「最悪の暴力」でもある児童虐待(戦争等最悪の暴力はたくさんあり比較は難しいものの、弱者代表である子どもに向かう児童虐待は倫理的に最悪の暴力のひとつであることは間違いない)に向かう、その「瞬間の心理と衝動」に僕は関心がある。

その瞬間の心理を暴くことが、児童虐待防止につながると思うからだ。

■1.「最初の暴力」と、2.「アディクションとしての暴力」

児童虐待に向かう瞬間、大人たち(親たち)は、暴力の対象(子ども/乳幼児)を「完全な他者」とは捉えていないような気が僕にはする。

それは他者(自分ではないもの)であって他者ではなく、コントロール可能でありつつどこかでコントロール不可な存在。

それは「じゃれあい」の延長かもしれず「からかい」の拡大かもしれないが、その延長と拡大の先にある「暴力」という客観的事実に関してはどこかで「許される」と思ってしまう行為。

リストカットと同じで児童虐待も2段階あると僕は考えており(リストカットは1段階は「自分をかまってほしい」→アディクション〈依存〉)、それは、1.「最初の暴力」と、2.「アディクションとしての暴力」の2段階だ。

ここでは、1段階目の「最初の暴力」を考えている。そもそも児童虐待に及んでしまうその瞬間(重要事項ではあるものの特殊事項でもある性虐待とネグレクトはここでは外している)、虐待加害者の親たちにどのような「デーモン」が降臨しているのか。

その悪魔の正体は、上に書いたような、その身体は子どもがいくつまで親のものかという、「所有」の問題が大きく関わっていると想像している。その所有感をもとにした自他の境界の曖昧さがベースにあり、「その瞬間」の感情的ブレが理性的制止を乗り越える。

自分のもの、あるいは自分の分身であるという安心感が、その所有対象を多少傷つけても問題ないという「ゆるさ」につながり、暴力の最初の一歩を踏み出してしまう。

■この手首(子ども)は自分なのだから、文句言われても知らない

「ゆるさ」とは、自他の区別の曖昧さのことでもある。僕にとっては、児童虐待の第1段階である最初の暴力に含まれる「親による子に対する所有感」と、SNSに顔出しで我が子の写真をアップする「所有感」は隣接している。

自他の区別が曖昧だからこそ、殴っても許される(自分で自分をたたくことは痛みはあるがどこかで「甘い歓び」がある)、あるいはネットにアップしても「ま、いいか」となる。

近代法においては「子どもの自己決定」は尊重されるものの、身近な日常感の中では法を乗り越える感覚が存在する。それが、子に対する親の所有感であり、それは各文化によって強弱がある。

日本文化は、どちらかというと、親の所有感に対して寛大な文化だろう。そう考えると、たとえば「子との入浴」に関する距離のとり方の文化的差異なども納得できる。子どもが幼児になっても異性間で一緒に入浴する日本文化は、このような「所有」概念の違いについて言及しなければ説明できない。

だから欧米の児童虐待と日本の児童虐待は、微妙にその質が異なっている、とも僕は想像している。

欧米のことはイマイチわからないものの、日本の児童虐待は以上のような「所有」の問題がどこかにあるはずだ。自分のもの、あるいは自分自身をたたいても、それは単なるリストカットであり、自分の手首を傷つけることとそう変わりはない。

この手首(子ども)は自分なのだから、文句言われても知らない。そんなふうに、児童虐待の第一段階である「最初の暴力」を僕は捉えつつある。★