■悲惨なのは若者

日本の共産党は戦略的に野党を選択しており(最初から単独政権を放棄しており)、それは天皇制の廃止と軍備の放棄という2大理想を掲げることからもよくわかる。

いわば戦略的にサヨクを選択していることから非常にわかりやすく、主張にもブレがない。

悲惨なのはそこに時々連立を組む社民勢力であるが、今回の民進党のように追いつめられて消去法的にその道を選んだ場合は贅沢も言っていられない。

より悲惨なのは、「理想」に惹かれてしまう若者である。あるいは、いつまでも若者くささが抜けないオヤジたち(あるいはフェミたち)である。

オヤジたちフェミたちは、もちろん全員ではないが、その理想主義精神が生きる糧でもあるためこれもある意味ブレがなく、いったん保守や天皇主義やウヨクだとレッテルを貼った相手には容赦なく侮蔑する。たとえば、首相のことを苗字で呼び捨てにしたりする。

そうした「オヤジ+フェミ」サヨクの硬直ぶりは、ある年齢以上のものはよくわかっており、左翼的思想に盲目的に従うそうした人々に対しては距離を置く。

たとえば村上春樹などは思想的にはリベラルではあるが、政治的態度としてはサヨクとは徹底的に距離を置いている。ハルキだけではなく、50才以上の「文化人」たちはたいていそうだ。

■ラブ・アンド・ピースは「排除」する

が、ゼロ年代後半頃から本格化し始めた階層社会化と社会の右傾化が、サヨク思想を蘇らせつつある。それは具体的には、反戦・平和や自由といった旗のもとに集結し始めており、従来のサヨクオヤジ・フェミと合体するかたちで大きな社会運動となっている。

主として階層社会化を起因とするヘイトスピーチの横行もこの「サヨクの市民化」に拍車をかけており、あからさまに差別するヘイトスピーチを聞いていると、そのカウンター言論であるサヨク思想に差別の嫌いな理想主義若者たちは吸い寄せられていく。

その理想主義若者は、たいていミドルクラス出身で、あるいは経済階層的にはアンダークラスであるが文化資本的にはミドルクラス(フジロックフェスに行くような)のアンダー/ミドルの若者だ(若者は、選挙にもフジロックにも行かない)だったりする。

経済的あるいは文化的に余裕があるせいか、オカネ(生きていくために必要な物理的資源)は後回しにして、理想や理念を語りたがる。

その理想や理念は、平和、反戦、自由、愛、平等といったまあ「ラブ・アンド・ピース」の世界だ。

おもしろいのは、このラブ・アンド・ピースは、こうした一連の思想に反対する者を排除する道具として機能するということだ。

言い換えると、「理想」は、その思想に従わない者を排除する。イデアは、そのイデア性についてこないものを間違っているとして排除してしまう権力性を常に帯びている。

これは社会主義思想に幻滅した村上春樹等の「当時の若者」にとっては当たり前の話で、フランスではそこからデリダ等のポストモダン思想が生まれたのだが、社会が再び階層社会化するとそうした経緯は忘れ去られ、理想がまた大きな顔をするようになった。

そこに、若者が翻弄されている。

■サヨクは権力的残虐さをもつ

翻弄というよりは狂騒といったほうがいいのかもしれないが、SEALDsの若者たちをはじめ、無邪気にサヨク化している若者をみると(またそこに心理的に反発するネトウヨや2ちゃんねらーたち若者も重ねあわせると)、以上のような「サヨクにまつわる当たり前の構図」が現在の若者たちにいかに共有できていなかったかがわかってしまう。

サヨクとは、その理想主義的美しさの裏に、権力的残虐さを常に伴うやっかいな人間の普遍的嗜好なのだ。

人間は、特に精神的に成長途上にある若者は、サヨク的理想主義の運動からは完全に逃げることはできない。サヨク的理想主義が右翼的排外主義から弱い人々を守ることも事実だ。

が、排外主義への対抗を強烈に求めるがあまり理念的一枚岩を周囲に要求するため、そこについてこれない人々(たとえば僕も)を排除してしまう。

たとえば「自由」という普遍的理念を求めれば求めるほど、組織としては不自由になってしまうという、人間組織に恒常的に伴う矛盾がここにはある。

ここから自由になるためには、あらゆる組織に属さない生き方か(村上春樹)、あえて組織に入りその組織がもつ矛盾をその矛盾を肯定しつつわらうというスキルで浮かび上がらせる(デリダの「脱構築」)方法などがある。

が、それらは村上春樹やデリダを知っているから言えること。

ゼロ年代後半の社会の余裕のなさが、我々から村上春樹も脱構築も追いやってしまった。残ったのは、SEALDs的純粋性の悲劇か、ネトウヨ的これまた純粋だが排外主義の二択だ。★