テレビニュースにも「閲覧注意!」がほしい~地震と事件映像からくる「傷つきの生産」について考えて

■活動気に入ったからこそ、考えてほしい

僕は「自由」という概念が大好きで、また20代は実は医療や教育問題を扱う独立系出版社で記者+編集者だったという経歴もあることから、メディアがとりあげる分野そのものについて、表現や報道の自由という点から、いつも敏感になる。

表現媒体がとりあげる作品化・記事化したものの中身については突っ込んで語ることもあるが、そもそもどういうジャンルに関心をもちどんな事柄について取材・執筆・番組化することに対しては、それこそ自由だから文句を言うべきではないということだ。

が、阪神大震災と東日本大震災を体験し、このたび震度7が続いた熊本地震も受けて僕が思うには、「これからも数年の周期で大きな地震は続く可能性はある」ということだ。

幕末前に地震が続いた時期から150年たち、関東大震災からも90年がすぎ、現在の我が国は完全に地震活動期を迎えている。

だから、5年以内には再びの大地震は十分予想され、それがまた大都市を襲う可能性も十分ある。

そのとき、何よりも重要なのは、大災害に備えた様々な準備(避難マニュアルや寄付・支援方法の共有化)ではあるが、意外に見過ごされがちなのが、地震報道に伴う「大きな意味でのPTSD(心的外傷後ストレス障害)」の生産という事態だ。

■見るだけで傷つく

メディア、特にテレビが洪水のように流し続ける、震災に伴う強烈な映像が、直接地震を体験していない者に対しても、恐怖の体験を与えるということに、テレビ制作側はもっと自覚的になってほしいとぼくは思うのだ。

みなさんのまわりにも、今回の熊本地震のテレビニュースに接して「実際に地震に遭遇していないのにそれはビビりすぎたろう?」という人がいると思う。

実際の震災の被災者ではない。が、震災の被害について本当に怯えている。まいってしまっている。中には食事も喉を通らない人がいる。心理的にも不安定になり、ささいなことで涙を浮かべたり気分が落ち込み鬱になる。実際にそうしたニュース映像が流れると、ブルブル震えたりもする。

これは大げさではなく、本当に地震について衝撃を受けている。あるいは傷ついている。もっと最近の言葉でいうと、「大きな意味でのトラウマ的傷つき」として心に大きな痛手を負っている。

その傷つきの理由は様々だ。過去に大きな地震被害に自分も遭った。あるいは親近者が被害に遭っていることもあるが、中には、自分と親近者は直接被害は遭っていないものの、実際に被害に遭ったのと同じような衝撃を受ける人がいる。

僕はこの状態について、それ以上深入りした分析はしないようにしている。単に、地震映像を見るだけで、実際に自分が地震に遭ったかのように怯える人々が少なからずいる。この事実だけを見た時、その人が見た「地震のテレビニュース」自体がトラウマの原因となるということを、僕は受け入れようと思う。

■「閲覧注意!」マーク

これは凄惨な事件報道についても同じだ。

主として子どもや女性が凄惨な被害に遭う事件を、テレビニュースは頻繁にとりあげる。おそらく視聴者の関心をひくと確信しているからなのだろうが、見ている人の何割かは、上の「地震映像トラウマ」のようなメカニズムで、こうした凄惨な事件報道にとらわれてしまっている人がいる。

最近知られてきたが、「事件」の数そのものは、戦後すぐのピーク時に比べるとかなり減っている。だが、我々は、昨今の凄惨な事件報道のインパクトのためか、現代が一番「暴力」が頻出すると捉えているようだ。

これは、様々なルートで「傷つく」人々が、これまでは潜在化していたためだと僕は解釈している。暴力や事件の数は戦後すぐのほうがだいぶ多かったし、それを言うと、最近話題の『暴力の人類学』(スティーブン・ピンカー/青土社)にあるように、石器時代の殺人数が飛び抜けて多い(その多くは広義の戦争)。

そうした凄惨な死に直接接する人も、今回取り上げているように「映像」として接する人も、いろいろな情報ルートで人は傷ついていくようだ。

直接的に被害に遭わなくても、インパクトある映像や文脈(被害者が子ども等)と接すると、「想像の翼」をもつ人間という生命体は、映像からの想像と文脈からの想像でその事象に没入していく。

映像と文脈から事象に没入していくのは、精神分析的には「欲望」対象だと言われる(性等)。が、この没入行為は、地震報道や凄惨な事件報道をきっかけとした想像の発動から起こるということは、それこそ少し想像すればわかる。

テレビニュースをつくるテレビ局のみなさんも、表現と報道の自由は大事にしつつ、それの取り上げ方を工夫してほしい。たとえば、ネットにはよくある「閲覧注意!」マークを流す、とかだ。★