なぜ「若い父」は赤ちゃんを抱っこするのか

■「若い父親らしき男性が赤ちゃんを抱っこする」という表象/イメージ

最近よく見かけるのは、「若い父親らしき男性が赤ちゃんを抱っこする」という表象/イメージだ。

それは、現代の保育所問題をとりあげる際に多用され、保育の義務教育化や病児保育などが具体的テーマとして取り上げられる。

たとえばこの、古市憲寿氏著の『保育園義務教育化』保育園義務教育化の表紙写真などはその系列にあり、若い男性(著者)が赤ちゃんのそばに寄り添っている写真がとりあげられている。

ほかに、若い父親らしき男性が満面の笑みを浮かべて赤ちゃんを抱っこしつつ、現代の保育所の問題をアピールするイメージ写真を最近よく見かける。

古市氏の本だけではなく、たくさんのシーンでこうした「若い父が赤ちゃんを抱っこする」というイメージが使われている。

僕が関心あるのは、なぜこのイメージが我々に訴求力をもって訴えてくるのか、という点だ。

現代社会になっても、一般的に男性は育児の中心にはなっていない。そうした事態のなか、現代保育の問題(保育所不足や病児保育)の中心に「若い父」をもってくる。これまでは保育の傍流にいた「父」をあえてそうした問題の責任を担うべき主体として、それらの写真イメージは見るものに迫る。

そうした、保育問題を考える際に、若い男性(父親)イメージを重ねることで生じるインパクトが狙いだとは誰でもわかる。

■「あざとさ」

が、僕などはそこにある種の「あざとさ」を見る。

そこに、ある種の「先進的男性」「リベラルな男性イメージ」のあからさまなアピールを見てしまう。日々の仕事で忙しい私だけれども、これだけ子どもの保育のことも考えています、こんな「新しい父親」像も最近は出現しているんですよ、だからみなさん、保育問題を真剣に考えてください、という主張がここには見え見えのものとして含まれている。

こうしたある種の「先進的男性」を示す戦術は、その狙いはよくわかるものの、イマイチ効果は薄い。

つまり、この「若い父が赤ちゃんを抱っこする」イメージを戦術的に用いる戦略は、それほど効果はないようにや思えるのだ。

それは、この行為自体が、ヘタすると、既存「家族」イメージを再生産する巧妙かつ偽善的な現代社会的手口のように伝わってしまうかもしれない恐れがあるからだ。

このイメージの産出自体は誰も悪くない。が、そのイメージを産出した途端、ある種のバイアス/偏見が生まれてしまう。それは、既存の「家族」イメージがすべての基本にあり、この基本イメージを死守することが、我々の社会を守ることになるという皮肉だ。

その皮肉に、「若い父と赤ちゃん」は最大限の効果をあげる。

■、既存「家族」イメージの再生産

これは言い換えると、既存の「家族」イメージの再生産ということでもある。

皮肉なことに、現代の保育園問題を喚起しようという狙いの「若い父と赤ちゃん」のイメージが、リジッドな(堅い)従来「家族」イメージを再生産してしまう。

赤ちゃんや保育園の問題をきちんとしてくださいというメッセージのもとわざわざ撮影した「若い男性(父)と赤ちゃん」イメージが、古典的「家族」イメージを再生産するのだ。

皮肉なことに、その古典的家族イメージが強調されると、そこに加担したくない既存「家族」像からはみ出る人々(セクシュアルマイノリティや、既存家族以外で成長する子どもたち等)を隠蔽する。この隠蔽され潜在化される人々が、つまりはマイノリティになってしまうことが問題だ。

保育園問題のような既存価値の中での主流問題を論じるとき、よほど意識していないと、その主流問題に押し流されるかたちで「マイノリティ」の問題(繰り返すが、セクシュアルマイノリティや、既存家族以外で成長する子どもたち等)が隠蔽されてしまう。

これこそが、差別に敏感になった我々の社会が、やはり差別を生み出してしまう(マイノリティを算出する)謎の答えだ。

とはいえ、冒頭の本の表紙の古市氏は、赤ちゃんを抱っこせず一緒に座っている。それどころか赤ちゃんの肩に手を置き励ましている。そんなところに僕は、古市氏の矜持を感じる。★