「ポーの一族」な日本人~老人という少年少女

■エドガーとアラン

なんと、萩尾望都の『ポーの一族』が読み切りで復活するらしい(『ポーの一族』に40年ぶりの続編 最新作「春の夢」が月刊フラワーズ7月号に掲載)。

若い人は知らないだろうが、40才以上のマンガファンならば誰でも知っている名作中の名作だ。エドガーとアランの永遠に年をとらない少年バンパネラが数百年に渡ってヨーロッパを放浪する話。

高校時代、ご多分に漏れずずいぶん孤独だった僕は、この作品を何度も読み返しては、「永遠の孤独とはどういうものなんだろう」「永遠の孤独を恐れて、エドガーはアランをバンパネラ化したのだろうか」「メリーベルという少女の役割とは」等々、ない知識をこねくりまわしては、四国の田舎で想像の翼を広げていた。

当時、萩尾望都にはもうひとつの傑作である『トーマの心臓』とそのスピオフである『訪問者』などもあり、僕にとっては『綿の国星』の大島弓子とともに最強二大マンガ家だった(ディープなマンガファンはそんな人ばかりだった)。この『ポーの一族』は、少女漫画をマイナー文化から解き放った傑作ではあるが、いま思い出してみると、ずいぶんと文学的かつ難解で、またロマンティックだ。

こんな作品がメジャーだったのだから、ある意味、日本文化もずいぶん高踏的だったと思う。

■年寄り風の服がない

『ポーの一族』を読んでいて痛感するのは、「自分だけ年を取らない怖さ」だ。まわりはどんどん年老いていく。なかには、少年時代知り合いだった人が、年老いてからエドガーとアランに出会うというお話もあった。

物語は、その年老いた人から見た永遠の少年たちという構図にどうしてもなり、「目の前のこの少年たちは、まさか数十年前に出会ったあの少年たちなのか」という不思議な感慨とともに、元少年いま老人を包む。

エドガーとアランのようなロマンティシズムではないにしろ、最近僕は街を歩いていてよく思うのは、「なんて若々しい格好をした老人たちが増えたのだろう」ということだ。

顔つきは70才を超えているように見える。が、着ている服は、まるで10代の少年が着るようなものを身にまとっている。それはどうやらGUとか「しまむら」の服のようだ。デザインや配色は今年の流行のそれであり、街には、同じようなデザインと配色の服を着た本物の10代も歩いている。

当の70代の人々に話を聞いてみると、どうやら、従来の「老人の服」は実はなかなか手に入らないらしい。そうした「お年寄りファッション」を買うためには、わざわざ百貨店に行って数万円を使う必要があり、おしゃれにたいしてそれほどモチベーションが高くない高齢者からするとその数万円はやはりもったいない。

70代なかばになって、わざわざ年寄りっぽい服を数万円出して着るのであれば、多少若作りと言われようがなんだろうが、2千円以内でそこそこのモノが買えるのであればそれで十分だ。

結果、少年少女のような服を着た老人たちが街を練り歩いている。

■高齢ひきこもりと永遠の若さ

高齢社会とは、「社会に属する人々全体が実際に年を取りながらも従来の歳相応イメージな枠組みには入らずに、かといって実年齢だけは重ねる社会」なんだなあとこの頃痛感する。

言い換えると、みんなが若く、みんなが少年少女といえば大げさだが、従来のような「お年寄り」がいない社会なのだ。

そう考えると、「高齢ひきこもり」の問題(40代のひきこもり)もそれほど奇妙なものではない。

我々の社会は階層社会になったが、高齢ひきこもりの問題はミドルクラスの問題であり、そこに虐待があるわけでもステップファミリーがあるわけでもない。

子どもはひきこもりのまま40代になり、親はひきこもりの親のまま70代なかばになっている。それぞれが実年齢を重ね、よく見ると「中年と老人」ではあるが、彼ら彼女らと少し会話すると、そこに「老い」は感じない。

ある意味、みんな「永遠の若さ」を生きている。

エドガーとアランと違うところは、その生には「本当の終わり」がやがて訪れるということだ。

高齢ひきこもりだけではなく、日本人全体が、やがて訪れる本当の終わりは予見しつつ、それぞれが奇妙な「永遠の若さ」の中にいるように僕には思える。★